家具職人、晩年の人生を垣間見る
晩年の人生をどう送るのか、長く生きていれば均しく誰もがぶち当たり悩み考える課題だ。
私は世上言われるところの団塊の世代。周囲の同年の知人のそのほとんどは会社勤めをリタイアし、半減する給与に甘んじつ再就職で精を出す者もいれば、カミさんに邪魔者扱いされながら、のんびり ダラダラと孫の世話でうつつを抜かしつ、それまでの人生の垢を削ぎ落としつつあるる者も多い。
ごく一部には一念発起し児童福祉の社会活動のNPOに所属し、そこであらたな生きがいを見出し奮闘するといったような殊勝な者もいたりする。
さて、そんな中、私は相変わらずしぶとく木工職人として木埃にまみれる日々が続く。
だがタイトルの「家具職人」は私のことでは無い。恥ずかしながら私は自身の人生を語るほどに老成するには至っていないから。
木工家具職のロールモデルというものがあるのかは知らないが、個人的にはそれぞれ規範とする先人、先輩もあるのでは無いだろうか。
私の木工修行はその門を叩いた年齢はいわば壮年期で、この種の修行開始の年齢としてはかなり遅い。それでも独立起業までには数カ所で世話になり修業時代を送った。
ただ若くも無かった事もあり、いずれも1年を越えない短期間のところばかりで、またいずこでも良い弟子では無かっただろうと思っているが、幸いにしていずれのところでも技能修得から、木工全般にわたる初期段階のエッセンスを獲得するに十分な環境に置かせてもらったものと感謝している。
そんな中にあって、30年後の今も親方と呼べる人がいるというのは木工職人にとって幸せな事かも知れない。
タイトルの「家具職人」とは、この私の親方と呼べる人のことである。
今日は私のロールモデルと言って恥じない、一人の木工職人の話をしよう。
5月の薫風爽やかな時期、親しい知人二人とともに、この元親方の工房を久々に訪ねた。
私が世話になった頃は静岡駅からも近い住宅地の一角に親方の工房があり、そこから数Km離れた借家に間借りした私は毎日自転車でここに通い詰めた。
30代後半の頃で、私もまだ若かった。
親方に依頼されてくる様々な家具制作の工程全般にわたり助手を務めながら、木工の技法、エッセンスを伝授された。
1980年代、量産家具の産地として活況を呈していた静岡でも、この親方はかなり名の知れたスゴ腕の一匹狼として、他では難しい制作の依頼から、海老名にある横浜クラシック家具の特注品などの制作依頼がひっきりなしに入ってくると言う状況。
この親方、昔は大勢の職人を束ね、木工所経営していた時期もあったようで、指導の経験も豊富だったのだろう。
指導とは言っても、手取り足取り、というのではなく親方の木工に挑む姿勢であるとか、木取りから始まる加工プロセスにおける合理的な思考法、また細部にわたる技法など、自分に与えられた仕事を進めつつ、背中越しに覗き見るというもの。
それ以前は松本の訓練校、および松本民芸家具で修行していた時期もあったのだが、幸いなことに信州で学んだ木工における仕口から加工法に至る考え方は、木工の基本においてはこの親方が修得してきた横浜クラシック家具のそれらと近似し、それだけにその移行はとてもスムースなもので、今にして考えればとてもラッキーな取り合わせだったのだろうと思う。
国内の無垢材の家具制作の構造、技法において松本民芸家具のそれは1つの代表的なモデルと言って差し支え無いだろうし、横浜クラシック家具は洋家具の部門では同様の評価を下しても良いと思われ、それらの家具構造、技法において、多くのところで共通するという事は決して不思議なことではなく、考えて見れば当然でもあるのだが、それだけに私の初期の修行コースは大変恵まれていた。
もちろん初心者ゆえの失態の時など、震え上がる程の指導の厳しさもあったが、傍で視ているだけで多くの事を深く学ぶことができた。
この場での修行は1年という時限を定めていたところから、双方共に真剣だった。
休み時間などには、横浜での修業時代の兄弟子の中で揉まれ学んだこと、馬鹿な遊びをやってきたこと、デザインの知見から人格にいたるまでたいへん優れた木工所の親方(戦時中は軍の将校だったとのこと)には公私にわたり世話になったこと、米軍関係者からの受注も含め、東京五輪の頃がもっとも活況があったことなど、多くの逸話を聴かされ、楽しい時間を過ごした。
この親方の下で世話になったのは結局は1年に満たない10ヶ月ほどだったが、その間、その後の独立起業以降の仕事の繋がりもでき、また様々な業者や木工仲間との関係も芽生えた場でもあったことからも、私の木工人生における原始的蓄積の場として深く刻印される時期でもあった。
起業して数年ほどは、難易度の高い仕事の時などには飲み屋やレストランに引っぱり出してはアドバイスをもらったり、あるいは茅野で木工を営む親方の兄弟子がホンジョラスマホガニーを処分するというので、私のトラックで荷受けしたり、県の職員らのディレクトで他の木工仲間と旭川の家具工場などに見学に行ったりと、比較的濃密な繋がりがあったのだが、20年後くらいからは、盆と正月の挨拶程度と少し疎遠になりつつ、現在に至っていた。
そして10年ほど前、親方の工房は静岡市の最北端の山懐に移転。
パトロン的な支援をしている大学教授の別荘の一角を借り、ここを木工房として整備し、主要な機械のほとんどを移転させ、木工に勤しむ晩年を送っている。
御年83歳。ご夫婦二人で山奥の生活を楽しみながら、木工人生を営む姿には励まされるものがある。
現在の仕事を良く知る人に言わせれば、仕事の品質はほとんど衰えていないし、そのスピードもさほど変わらぬものがあり、これには本当に驚くと語る。
背中もやや丸く、髭も真っ白になり、山奥に相応しい仙人の姿そのものだが、まだまだ足腰もしっかりしており、この先数年は木工を続けたいとは本人の弁。
木工作業全般にわたる助手を務めるパートナーの夫人は、懐かしさの余り抱きつかんばかりに私に掛けよってきたものだが、角ノミ作業では腕が上がらなくなっていて辛いとの泣き言を漏らす。
二人の子供を育て上げ、多くの孫にも恵まれ、仕事内容への評価ゆえ、美術系の教授に見込まれ様々な支援を受けつつ、時にはアマゴ、イワナを吊り上げ、小さな菜園を営みつつ、自然豊かな環境でゆらりと好きな木工で人生を送る。
職人として身を立て、地域では押しも押されぬ優れた木工家として評価され、理解者にも恵まれ、静かに山懐に抱かれ、晩年の人生を送る姿は、何らの憂いも無く誇らしい生き方の1つの規範と言って間違いないだろう。
私は親方と較べれば卑俗的な男なので、とても彼のような人生を送ることはできないだろう。
事実、83歳で木工してるという自分の姿はとても想像できない。
何も体力の問題を言っているわけではない。
幸いにして職業病でもある〈呼吸器疾患〉を除けば、何ら問題のない健康体だ。
痩せぎすだった体型も、標準体重を維持しつつあり、食欲も酒量も🤣ごくフツー。
しかし人には寿命というものがあり、父も兄も短命だったので、この年まで元気に過ごせてこれたのが不思議なくらいだ。
83歳まで元気に生きようなどとの傲慢さは捨てるべきなのだろう。
そうした死生観という領域の問題を考えた時、人生の晩年であるこの時期、「自分とはいったい何者か」という自問自答を迫られる時期であることは疑いなく、そこから逃げるだけの時間的余裕は無くなりつつあるということだろう。
その答えを出していかねばならないのだが、ただ、家具職人として生きることへの疑いを払拭してくれる好個の事例が眼前にあることを確信させてくれる訪問であったことは確かだ。
「高齢なくせに」という軽侮の眼差しに晒されたとしても、円熟というものを拒絶し、常に現場の劈頭で迷いながらも闘う一人の人間でありたいという願いは持ち続けたいと考えている。
下のYouTubeは 〈Mercedes Sosa〉の 「Gracias A La Vida」
「♪ 人生よありがとう…」と謳われる人生の賛歌だ。
世界的に熱い時代だった1960年代後半に南米チリで作られたものだが、ピノチェトによるクーデターを挟み、闘う人々の間で歌い継がれ、その後、静かに世界へと拡がっていった。
(ラテン専門の和訳をしてくれてるサイトがあり、参照いただこう)
ジョーン・バエズはじめ、多くの歌手が歌っているようだが、ここではやはり大好きなメルセデス・ソーサのものを貼り付ける。
親方にも届けたいが、果たして好んでくれるかは分からない。