工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

2020東京五輪強行はオリンピック終焉への弔鐘(6)〈追補あり〉

パラリンピック

パラリンピック開会式(毎日新聞)

Covid-19パンデミック下での 2020東京五輪 も終わり、デルタ株の猛威に晒される医療現場の逼迫状況が日を追うごとに厳しさを増す中、今度はパラリンピックの開幕となり、再びメダルラッシュがもたらす狂騒、あるいは「感動ポルノ」との相乗となり、コロナ禍を巡る最大の困難に立ち至っている現在の状況を覆い隠していくかのようです。

パラリンピック開催、本当に大丈夫なのか

パラリンピック(以後、「パラ」と略称)の感染症対策、行動ルールは、五輪と全く同じものとされ、関係者のみを「バブル方式」で囲い込み、選手は毎日、唾液による抗原定量検査を実施するとのこと。
陽性の判定が下されると、選手村に設置した「発熱外来」での正規のPCR検査に移行し、その結果、陽性が確定すると濃厚接触者を含め隔離することになっているようです。

現在、パラリンピック関係者の感染確認者数は219人と報道されていますが(朝日08/28)バブル方式とは言え、オリンピック大会でも選手村を抜け、街中へと繰り出した海外選手もあったようですし、また大会警備のために地方から派遣されてきた警察官の多くが感染確認され、彼らが地元に帰還し、その地域での感染を拡大させる感染源になっているようです。(NHK


菅政権は五輪開幕前に4度目の「緊急事態宣言」を発してきたものの、その後、人流は大きく抑制されるということもなく、「宣言」慣れ、あるいは政権への不信が重なり、一方での華々しく開催された五輪を横目に「行動自粛」などといっても若い年齢層からは反発を招くだけで、「宣言」は政府の期待とは裏腹にまったく奏功されていなかったという事実があります。

そうした人々の行動スタイルの冷厳なデータがあるというのに、あらたにまた「パラリンピック」の開催となれば、ますます人々の行動規範は緩み、感染状況の抑制どころか、ますます感染者を増大させ、医療の逼迫状況を完膚なきまで破綻させるモメントとして働いていく怖れさえあります。

既に東京都内だけでも自宅療養している人は現在2万人を超え、入院や宿泊療養の調整中の人は約1万1000人にのぼり、法定感染症第2類とされるこのCovid-19 の感染者は基本、入院させ治療を施すこととなっているにも関わらず、宿泊療養者を含め、約4万人ほどの人が自宅待機を強いられ、明日、自分は朝を迎えられるのだろうかという不安な状況に追いやられているという現状なのです。

方や祝祭的スポーツイベントが華やかに繰り広げられる中、他方では多くの人が明日の命も危うい状況に見捨てられているという、この究極のパラドクス ¯\_(⊙︿⊙)_/¯。

「国民皆保険」、「世界最先端の医療体制」と盛んに喧伝されてきた日本の医療も、一皮むけばこのお寒い状況にあることを突きつけられ、呆然とするしかありません。

菅政権がやるべきことは感染拡大のモメントにしかならない「パラリンピックの中止」あるいは「延期」という強いメッセージを発することで、危機意識を強力に涵養させることに尽きるはずなのです。
国会も閉じたまま、こうした議論の場も奪われてしまっている状況下、このパラリンピック強行はパンデミックを抑制させ、反転させる好機をみすみす失ってしまう、愚かな判断だったと思います。

「学校連携観戦プログラム」

パラ大会は無観客とされていることは承知の通りですが、なんと「教育的な観点から」との位置づけから都内の小中高の生徒らを“観戦させる”というプログラムが発令されています。

このプログラムを受けた各自治体の対応は様々ですが、都知事や千葉県知事などの前のめりな姿勢に対し、各自治体の教育委は困惑ぎみとのことです。
生徒らを預かる教育委としては競技会場への移動、会場内での児童らの思わぬ興奮状態などから感染に晒すリスクの高いプログラムへの疑念は、考えて見れば当然でしょうね。

当初138,000人の参加見込みとされていましたが、相次ぐ辞退により20,000名ほどの参加希望と大きく縮小されたようです。

東京五輪では自転車競技が行われた静岡県伊東市など一部の競技を除き「無観客」でしたが、静岡県下の感染状況は悪化の一途を辿っていることから、全会場が無観客とされたところです。
にもかかわらず、子どもたちを「教育」の名の下で動員掛けるのは、明らかに暴力的で、疫学的にも間違った「教育指導」ではないでしょうか。

感染症対策分科会の尾身茂会長も「今の感染状況はかなり悪い。そういう中で考えていただければ、当然の結論になると思う」と述べ、児童らの観戦は慎重であるべきと語っているのです。

事実、千葉市ではこの「学校連携観戦プログラム」への引率で6名の教員が感染確認されています。
生徒らへの感染は今のところ不明ですが、今後も観戦は継続の方針とのこと。(千葉日報08/30

結果の甚大さをもわきまえず、良くもまぁ生徒らを危険なところに立たせるものだと思いますよ。

パラリンピック開催というアポリア(採火式会場の問題から)

4月頃でしたか、入浴中、バスルームの窓辺に置いたラジオから聴こえてきたニュースに驚き、濡れた手でボリュームを上げ、耳をそばだてることがありました。

事件直後の「津久井やまゆり園」

パラリンピックの聖火リレーの採火式を「津久井やまゆり園」で行う計画が進んでいるというのです。
そうです、相模原の障害者施設に元職員が侵入し、入所者19名が殺害されたあの凄惨な事件の現場です。

誰が構想したかは不明ですが、組織委、あるいは組織委と一体となって進めている電通の幹部あたりがやまゆり園で採火式をやれば、きっと盛り上がるぞ、といった彼ららしい欲情と浮薄な動機から考え出したのでしょう。

この事件には本Blogでも3回にわたり、記述してきていますので(「相模原・障害者施設における惨殺事件の衝撃」1、2,3)、熱心な読者(そんな人いるのかな? 苦笑)であれば、書き手の思いや願いはお察し頂けるものと思いますが、この場所は鎮魂の場として、遺族や関係者、あるいは日本社会における障害者問題を考える上での原点となるべき場であって、晴れがましく、採火式などを執り行うといった祝祭空間であって良いはずは無く、当然にも、遺族や関係者から猛反対の抗議を受け、断念にいたったようです。

【全文】「津久井やまゆり園」での採火式中止を求める要請書(東京新聞・04/13

前述Blogでも書きましたが、この要請書において骨格の1つのになっているのが

「日本国は、未だ「最重度の知的・重複障害者も生きる権利がある、このようなテロ行為は決して繰り返させない。」という宣言をしてくれていません。 津久井やまゆり園の前でのみならず、首相や厚生労働大臣が示したどのメッセージにもそれがありません。あの男が要請した一方的な「安楽死政策」を、明白かつ明確に否定する言葉を、未だ示していないのです。

私は次のような思いを書いていたのですが、その文脈と主旨は上述の遺族の要請書に貫かれるものと通底するものと言って良いでしょう。


いまだに本事案に対する政府筋からの一切の明確なメッセージが発せられなかった事への当時の困惑と憤怒の思いは変わらず、ましてやそれらが為されることなく、今回は利用主義的にこの鎮魂の場を採火式の会場として汚すことは本当に許せない思いです。

ここに組織委、これを実態的に担っている電通の浮薄で間違った認識がいみじくも表されているように思います。
事件後に、安倍首相あたりがこの事件を断罪する明確なメッセージを発していれば、このような安易な利用主義的な考えは浮かびもしなかったはずです。

日本社会は多くの事柄に、このような甘い態度で終始し、誤りを克服する契機を作ろうとしない傾向がありますが、大変残念に思います。
断罪すべき事をなぁなぁで覆い隠し、その結果、同様の事案の発生を防げない。
進歩を阻む社会なのです。

植松被告は重度障害者抹殺への使命感を認めた(したためた)、衆院議長への犯行予告の手紙を書いています(こちら

つまり、彼は単独犯ではあったものの、国の責任として重度障害者を生きさせるべきではない、それを自分が敢行するのだ、と申し立て、宣言しているのであって、その結果としての残忍な殺傷事件に対しては、政治の側から明確に応えねばならなかったはずなのです。

「障害者を殺すな」
「障害者は私たちと供に、生きる権利がある」
「ナチスの優生学思想は全くの誤りである」と。

遺族の要請書にはその願いが認められています。

またこのあたりの問題を、さらに敷衍化させ、聖火リレーが始まったのは1936年ベルリン大会からだったということから説き起こした映画監督の宍戸大裕さんの取材記事がありますのでシェアしたいと思います(朝日 03/31「やまゆり園で聖火「当事者の声聞かず悼む場を利用か」」)

2020東京パラリンピックはその根幹に「共生社会」を掲げられているわけですが、この「津久井やまゆり園」は一般社会との「共生」から排除され、入所させられている重度障害者施設なのです。

「採火式」の場としてここを利用するというのは、残念ですがそこには明らかに欺瞞が横たわっていると言わねばなりません。

「共生」というのは、一般社会に障害者も溶け込み、苦楽を共にし、生きやすい地域を作っていこうというものであり、専用施設に送り込み、その存在を見て見ぬ振りするものであるはずが無いじゃありませんか。(障害者の生き方を、施設に送り込めばそれで良い、というものから、一般社会の中で共に生きよう)、というのが「共生社会」の主旨なのでは無いですか?

津久井やまゆり園(後ろに新しい建て屋が建造中のようです)

彼らにとっての現状とは、したがってパラリンピックとは無縁の世界で生きることを強いられているといわねばなりません。

安直な「感動ポルノ」で問題が解決に向かうどころか、問題の在り様を封印してしまう危険性すらあるのです。

このことを当事者でも無い私が語るのは難しいのですが、パラリンピックはエリートアスリート(中にはプロ契約している選手もいるようですし)を軸に、様々な傷害を抱え、リハビリを兼ねたスポーツへの取り組み、さらにステップアップさせ、競技へと挑み、自信と勇気を勝ち取り、ついには栄誉ある舞台に立つという、類い希な人たちによる世界的な競技大会であり、これに感動し、涙することも多いと思います。

純粋な感動を得ることも多いと思いますが、大事なのは、この競技大会の場での「感動」を消費させるに留めること無く。普段の一般社会の中での自分たちの周りの障害者の存在を認識し、スポーツへの取り組みをより容易にできるための施設の整備や指導者の態勢を整えるといったことであったり、例えそこまでいかずとも、ともに歩むところへと還元できるのかが問われているのだろうと思うのです。


これは五輪競技でも同様の傾向を持つのですが、開催国ともなれば、競技団体への潤沢な予算措置が為され、競技者も心おきなく競技に打ち込める環境が提供されるものの、これが終われば、残念ながら予算は大きく削減され、競技団体の維持すら困難になるということが出てくるのが実態だと言われます。

たぶん、今回も同様の経緯を辿るのでしょう。
東京五輪も、パラリンピックもメダルラッシュで狂奔していますが、コロナ禍によるアンフェアな態勢の差異に加え、競技団体への国家的な予算措置は通常の大会と較べ、相当に格差があると言われているところから、各競技の好成績はある面で当然ではあるのです。

問題は五輪後、パラリンピック後のスポーツの定着なのです。一部のエリートアスリートだけに還元されるのでは無く、広く一般の市民スポーツへと還元され、はじめて五輪の、パラリンピックの、社会的意味も出ようというものです。

一方、パラリンピックに出場できる障害者はごくごく一部の人たちです。
殺されてしまったやまゆり園の障害者のように、重度の障害を抱え、社会から排除され、封印されてしまう障害者も少なく無いのです。

当然にも、こうした「共生社会」に向かうには、前述した問題、政治の側から明確なメッセージが発せられるかどうかが大きな分かれ目になるのだろうと思っています。

「障害者を殺すな」
「障害者は私たちと供に、生きる権利がある」
「ナチスの優生学思想は全くの誤りである」と。


※ 追補 パラリンピックの陰で……ワクチン接種もままならぬ障害者たち

介護福祉の現場からのリポートが、Web【論座】にきていましたので、シェアしたいと思います。

パラリンピックの陰で……ワクチン接種もままならぬ障害者たち
クラスターが起きる支援施設、なのに学校連携観戦か?
 ライター:白崎朝子 介護福祉士

華々しいパラリンピック開幕の影で、障害者施設の入所者への COVID-19ワクチン接種はなされず、クラスターが発生し、犠牲者も、という生々しいリポート。

末尾の段落で「津久井やまゆり園」障害者殺傷事件への言及もあります。著者の問題意識は本投稿と重なるところも多く、怒りを共有したいと思います。

 施設Aのクラスターでは、この国の障害者差別、オリンピックとパラリンピックの暴力的本質(犠牲の強要)を凝視せざるを得なかった。

 7月26日は相模原障害者殺傷事件から5年目の日だったが、感染者対応に追われた施設Aでは、「やまゆり園の被害者に黙祷すらできなかった」という。オリンピックの影で、やまゆり園の報道も、ほとんどなされなかった。

 コロナ禍が始まった昨春、植松聖被告の死刑が確定。そのいのちでもって、「責任」を償うことになった。だが、植松被告に死刑を宣告した“国家権力”側の人間は、誰も責任を取ろうとしていない。専門家たちの意見や市民の声も聴かず、無策のまま突き進み、大量の死者が出ているのに……。

 この夏、かけがえのない同志の苦闘と障害ある人たちの訃報を聴き、絶望や悲しみに打ちひしがれていた。だが、その苦しみを怒りに変えて、介護現場の仲間たちの切実な実態や、その声を届けていけたらと思っている。


「ワクチン一本足打法」でこのコロナ感染爆発、医療逼迫状況を凌ごうとしてきた菅義偉首相ですが、障害者スポーツの祭典を強行しつつ、実は国内の障害者へのワクチン接種は遅れに遅れ、メダルラッシュの報道の影で、感染者、クラスターが次々と発生し、死者も。
パラリンピック放送は優先されても、この実態はTVはほとんど触れません。

【論座】サイトからお借りしました。感謝!

菅義偉首相の退陣劇には呆れかえるばかりですが、こうしたチグハグな感染症対策の結果でもあり、その報いでもあるでしょう。
この【論座】リポートなどに触れると、あまりの悔しさで怒りが滾ります。

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