工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

2020東京五輪強行はオリンピック終焉への弔鐘(終)

五輪敗戦と遺された問題、そしてオリンピックというアポリア

2020東京オリンピック、パラリンピックは日本社会に、あるいは近代オリンピックの歴史にいったい何を遺したのでしょうか。

菅政権はNYT、W.POST、The Gurdianなど内外の名だたるメディア、さらには多くの市民からの五輪開催強行への疑念、開催すべきでは無いとのメッセージに一切応えること無く開催断行したのでした。

その間、東京都では連日、COVID-19感染症が発生して以来 最悪状態の4,000から5,000名を越える感染確認者が出るという感染拡大状況を呈する有り様。

また開催直前の組織委責任者の差別主義的な問題、ホロコーストを揶揄するといった禍々しい問題などを引き起こしつも、何とかこれらを取り繕い、終幕を迎え、開催に関わった5者(IOC、JOC、組織委、日本政府、東京都 の5つの機関)は、終えた事への安堵と自負の言葉を並べ、嘯いたものですが、このオリパラ開催成功を政権浮揚のテコとしようと目論んだ菅義偉首相にとっては思いもよらぬ展開が待ち受けていたのでした。

何と、自民党総裁の任期切れ(元々、前自民党総裁であった安倍晋三氏の任期であったものをそのまま引き継いだことによる)で行われる自民党総裁選には出馬せず、退陣決断に至るのです。

これにはいささか驚かされましたが、無謀極まる五輪開催強行と感染拡大への強い批判に晒された結果、本人としては思いもよらぬ展開と考えるのが大方の読みでしょう。

本人曰く「膨大なエネルギーを使う総裁選とコロナ対策を両立させるのは困難で、残された任期はコロナ対策に専念することに…」とのこと。
総理総裁の器に能わずと、自民党内外からの指摘で引きずり下ろされての不出馬だというのに、こんな見え透いた嘘をいったい誰が信用するというのでしょう。


6月初旬に党首討論をやったのを最後に、菅首相は国会を閉じ、姿を見せぬまま、こそこそと退陣するとのこと。
これのどこが「コロナ対策に専念」なのでしょう。意味不明。

菅首相としては、五輪のお祭り騒ぎでコロナ禍の鬱屈した空気を一掃させ、その勢いを駆って「政権浮揚」へと繫げ、総裁再選を勝ち取り、総選挙に打って出るというシナリオだったはず。

ところがそのシナリオは脆くも崩れ去り、総裁選出馬を断念せざるを得ないところに追いやられてしまったというのが実際のところ。

私はそのつもりも無かったので観ていなかったのですが、パラリンピックの閉会式のひな壇では、臨席の皇族、東京都知事、IOC会長などが笑顔で選手らを迎える中、ひとり菅首相だけは陰鬱な顔というのか精気の失せた相貌をしていたことがSNS上で話題になっていたようです。

心ここにあらずと言うのか、そもそも五輪そのものへの興味は全く無かったのかもしれませんね。
ただ「政権浮揚」には使えるだろいうという判断から、開催強行したものの、しかしその結果、「政権浮揚」どころか、政権は失墜していくことに。

身から出た錆とはいえ、政権浮揚という政治利用主義で五輪を活用するなどという邪な(よこしまな)考えがいかに独善的なものであったかは、この退陣に追いやられたという政治のダイナミズムが教えているのでは無いでしょうか。

いかに政治家が五輪と結びつけて政治利用しようと夢想しても、その欲望に安易に踊らされる人々ばかりでは無かったということです。

手元に、朝日新聞の09/04 土曜別刷りの be に〈「五輪体験」してますか〉というアンケートがきています。

73%の人が「五輪体験」し、27%の方が「五輪体験」していないとの結果。
まぁ、こんなところでしょうか。
記事にもある通り「五輪開催自体は政治的で賛成できませんが、選手の皆さんは一生懸命頑張っているのですから良いも悪いもありません」との立場から、TV番組は一部を除き、五輪ファッショ的に競技中継とアスリートらに纏わる話しで占められ、定時の/ニュースさえ五輪一色となり、日々のルーチンだったニュース番組が飛んでしまうという大変な事態で、仕方無くそのまま五輪中継を横目で見遣る、といったところだったのでは。

むしろ3割近い人が、これを拒否したというのは、ちょっと凄いと思いませんか。
あえて云えば、五輪狂奔に背を向ける真っ当な人がこれだけいるだなんて、日本社会にとっては救いと、私は観たのでした。

私は、開会式は事前のいくつものネガティヴな話題性からチェックしましたよ。(このシリーズでも書きましたが)
個別の競技では大坂なおみのテニス、スケボーのパーク、男子サッカーなど、一部の限られた競技をながら視。

記事中の「五輪貴族のための五輪であることが今回でよくよくわかった。五輪に意義はありません。ずっと反対し続けます」は、ほぼ私も同意見。

大赤字の決算書

IOCの金権体質、商業主義は30年ほど前からかなり深刻に語られてきていましたが、この2020東京大会はこれほどにIOCの金権体質、商業主義が露わになった大会はなかったのでは無いでしょうか。

招致段階での開催費用予算は総額7340億円とされていたのですが、実際には3兆円を大きく超えてきていると言われています。(朝日:五輪費用、3兆円超? 関係者「もっと大きい」 押しつけ合う大赤字)

つまり、終演を迎えた今、大赤字の決算書が突き付けられることは間違い無いところですが、これは8ヶ月後の来年4月以降でないと明かされないとのこと。

五輪閉幕後、直ちに決算書を明らかにされれば、その赤字の巨大さに批判殺到は必至でしょうが、人々のほとぼりの下がるまで、ネガティヴな決算結果の公表は先延ばしさせようということなのでしょう。

トンデモ無い決算書になることは明らかで、この大きな赤字をどう補填するのか、組織委、IOC、東京都、日本国、この4者の押し付け合いが始まっているところでしょう。

おっと、この4者の中のIOCはこの負債には関わらないことになっているようで、ようするに開催都市の東京都と国が支払うしかないのです。(日刊スポーツ「東京五輪決算は来年4月以降 課題山積、赤字は「規模感申し上げられない」)

招致段階の総額7340億円は「コンパクト五輪」として構想されたものでしたが、なにをかいわんや、肥大化する一方の競技施設、「新国立競技場」での建設費用の増大といった、コロナ禍以前より積み上がった経費に加え、招致段階での「温暖な時期でスポーツ開催には最適な時期」とのウソっぱちから、酷暑対策への投資(マラソンコースの「遮熱性舗装」等々)、これに、一部を除き、ほとんど全てが無観客競技になってしまい、チケット売り上げはほぼゼロとなり(900億円の収入が見込まれていた)、とんでもない赤字大会になってしまった。

およそ、五輪で儲けた例しがないと言うのがこれまでの常識ではあるものの、これほどの赤字はたぶん前代未聞のものになるのでは。来年4月の決算は心して待ちましょう。


宴の後の寂しさどころか、財政の厳しい日本に、また目も眩むばかりの重たい五輪経費の支払が積み上がるというわけです。

五輪プロパガンダに勤しんだメディア、スポンサーの悲劇

開催直前に公式スポンサーであったトヨタ、パナソニックがこのコロナ禍での開催強行を批判し、CM出稿をしないとの決断をしたことは大きな話題を呼びましたが、これらも民放の五輪中継の赤字へと繫がっているようです。
番組のメインのスポンサーになるはずが断られ、その分、格安で提供された時間枠をAC広告他、中小の企業に埋めてもらったといった顛末。
Bloomberg「トヨタ、社長ら五輪開会式に出席せず-国内で五輪CM放映もなし」 )

もちろん、今回はコロナ禍での開催強行という特異な状況下の困難という要因が大きかったわけですが、それに留まらず、開催への疑義、組織委内部の様々な問題が露呈する中にあって、開催都市・東京都、日本政府の五輪ファッショとも思える強引なまでの開催強行へのネガティヴな空気が蔓延し、五輪そのものの価値への疑念となって表れていることは否めないでしょう。

また一方、トヨタ、パナソニックのこの度の五輪との距離感を視たとき、来春に控える2022北京冬季五輪ですが、中国の新疆ウイグルへの民族迫害、さらには香港の民主派弾圧の強化は、アメリカ・バイデン政権を先頭に2022北京冬季五輪のボイコットが叫ばれているなかにあって、これらの主要スポンサー企業の広告出稿は企業イメージにも直結するところから、距離をおく姿勢となっていくのではと思われますね。

東京五輪は「コンパクト大会」とされ招致運動を勝ち抜いたものの、その実、3兆円を超える大赤字の巨大なイベントになってしまっているように、今や五輪を開催できる国は極めて限定的なものになってしまい、しかも中国のように国際社会の価値観とは相容れない国家しか開催できないものとなるようであれば、いよいよ近代オリンピックもその重さゆえ継続困難な時代を迎えつつあるのかもしれません。

以下、BBCの報道を貼り付けます。

なぜオリンピック招致から撤退する都市が相次いでいるのか

2032年夏季五輪・パラは豪ブリスベンで決定 IOC総会

〈決定されてる今後の五輪開催都市〉

2024年大会:フランス・パリ
2028年大会:アメリカ・ロサンゼルス
2032年大会:オーストラリア・ブリスベン

2020東京大会オリンピック、その負の遺産

2020東京五輪開催前、コロナ禍で開会そのものが危ぶまれる中、強行することの意義づけとして、やたらと語られた「レガシー」という言葉の数々。

菅首相の最後の舞台となった国会での党首討論では、1964年東京大会の個人的な思い出話に延々と花を咲かせ、鼻白むものでしたが、確かに前回大会は敗戦から20年経たずして、大規模な五輪大会を開催できるところまで復興したことを内外に指し示す意味も大きかったのは確かでしょう。

首都高、新幹線の開通など、交通インフラはじめ、1945年、20年戦争の結果、敗戦で灰燼に化した東京の世界的な都市への脱皮をお披露目できたことは確かだったのでしょう。

対し、今度の2020東京大会はどうだったのでしょう。

確かに湾岸エリアにはいくつもの競技施設が新設され、今後の国際的スポーツ大会にも活用されるでしょうから、喜ばしいと思う一方、そのほとんどは年間収支は赤字のリスクを抱え、大変なんだそうです。

  • 海の森水上競技場 整備費 303億円 年間収支:1.6億円の赤字
  • 東京アクアティクスセンタ 整備費:567億円 年間収支:6.4億円の赤字
  • カヌー・スラロームセンター 整備費:78億円 年間収支:1.9億円の赤字

これらの活用は未知数ではあるものの、公表されている赤字額も、実際はそれを大きく上回るのは必至といわれているようです。

建設時の構想では、招致時の「コンパクト五輪」など忘れ去られ、とにかく立派なものを、との掛け声で、後は野となれ山となれではありませんが、とにかく、身の丈に合わない豪華なものを作り上げ、きらびやかに演出したのでしょうが、こうした負のレガシーは、むしろ後世の巨額な負担となって納税者を泣かすことになるのです。
1964年であれば、そうしたものをも相殺させるだけの右肩上がりの経済成長が読み込まれたものでしょうが、2020年は、逆に経済成長はまったく覚束ないという現状を突き付けられていると言うのが実相でしょう。


なお、湾岸ではありませんが、建設に1,569億円を掛けた国立競技場の場合、その年間経費は24億円だそうです。
当初、五輪後はサッカーW杯などの招致を見込み、トラック部分を無くし、8万人規模の球技場に改修予定だったのですが、世界陸連の2025年世界選手権の開催が取りざたされ、今後の活用方針は宙ぶらりん。
活用の方途がいかに宙ぶらりんとはいえ、毎年24億円が支出されていくことだけは確かなのです。

これだけの経費を埋めるだけの大規模イベントを開催できる目処など、たぶん無いのでしょう。
どうするのでしょうかね。(「東京五輪に残った遺産、施設運営は収益面に改善余地ーIR誘致も」

こんな先々のことなど、IOCや、招致段階から企画構想、運営までその主軸を担ってきた電通にとってはどうでも良いことで、既にがっぽりと稼ぎまくってしまっているのです。

彼らにとっては光輝く晴れがましい「レガシー」が金庫に溢れんばかりに注ぎ込まれていることでしょう。
まさに五輪貴族、特権階級のためのオリンピックと言われる所以です。

この東京五輪の遺産「レガシー」は五輪開催を強行させるための、目の前にぶら下げられたニンジンだったわけですが、終えた今、決算書同様に検証し、公表されるべきでしょうね。

東京都はその「経済波及効果」を32兆円と試算していたのですが、実際はその2〜3割に留まるだろうと指摘する記事です。(朝日「五輪の経済効果、口つぐむ都 実感ない街/試算32兆円/検証は未定」

しかし、上述したBloombergの記事にあったように、新たに建造された競技施設の今後の運用における収支の軒並み赤字の想定からすれば、電通他、一部の建設業、スポーツ産業などの企業を除き、とてもポジティヴな黒字の「レガシー」などどう計算しても弾き出されないのでは無いでしょうか。
残ったのは巨額の借金なのです。無論これは、今後私たちが汗水流して働き、納税する税金で賄われるしかないのです。

オリンピックのレガシーとは(地域への還元を!)

しかし、あらためて考えてみるならば、あたかも、オリンピックのレガシーとはスポーツイベントを活用した、経済効果であるかのように喧伝されるのは、およそおかしな話しでは無いでしょうか。

あるいは、菅首相が党首討論で語った前回大会への思い出話も重要で無いとは申しません。

2020東京五輪はコロナ禍という大変な状況下で行われた大変困難な大会で、みんな頑張った。といった記憶も残るやも知れませんが、本来、やはりスポーツに親しみ、行うことの快楽と歓びであり、健康増進であり、あるいは稀有な国際交流の場として活用されることで、グローバルな意識を涵養し、特に昨今、問題とされる、人種間、民族間の差別排外主義を克服し、共に生きる歓びを確認し、精神的な豊かさをもたらすものであるべきものと思うのです。

さてところが、選手らはバブル方式と言われる、一般社会から隔絶した極めて限定的な空間での活動を強いられることで、国際的交流は阻まれ、さらにはほとんどの会場が無観客となり、海外からの数万人の観客との交流も断たれ、得意な外国語を活かし、ガイドを務めようとエントリーしたボランティアの失意は見るに忍びないものがありますし、ほとんどこれらの開催意義は無に帰したと言わねばなりません。

そして、ここは強く指摘したところですが、オリンピックに参加するアスリートらは、いわゆるスポーツ界のエリートです。

国内大会などで活躍し、見込みのある選手らに国からの強化費用が投下され、組織的に鍛えられていくわけですが、とりわけ自国開催となったこの2020東京大会のような場合、その強化費は通常を倍するものがあると言われています。

自国開催である以上、各競技において好成績を収めねばという、各競技団体の強い思いは理解しますし、メダル数を指標にしてしまうのも、本来、大会での競技の成果は個人に帰するものであるわけですが、各国、個々のオリンピック組織委員会の下に組織され、国別の対抗として表されてしまうのは本来、五輪憲章に反するものではあれ、相矛盾するのも仕方ない面もあるのでしょう。


そうした枠組み、五輪という構造に対し、もっとキホンに立ち返って考えて見るべきだろうと思います。

エリートスポーツの大会を盛り上げるのは大切でしょうが、とりわけ自国大会として巨額の投資が行われるのであれば、これはその後、地域のスポーツ促進へと還元させるというものがなく、単発的に消費されてしまうものであるとするならば本来の開催意義の根幹に関わってくるのではないでしょうか。

スポンサーの協賛金はそれぞれ、その企業へと還元されれば良いでしょうが、相当の税金が投下されるからには、地域のスポーツ振興、競技施設などのインフラ整備へと還元されるべきなのです。

いくらTV観戦で競技への関心を高めても、これを市民が地域で実践し、スポーツの歓び、身体に刺激を与え、健康増産にも繫がる場を確保するという施策を伴うもので無ければ、五輪を招聘し、国家規模でこれを行う意味は半減してしまうでしょう。

残念ながら、そうしたところへは、意識そのものが希薄ですし、晴れがましい豪華な施設を東京会場に集中投下させるといったところが精一杯で、しかしそれではやはりダメでしょう。
運用においては収支が赤字になってしまうような豪華な施設を首都に集中的に造っても、国家として視た場合でも、実に貧困な思考だと言うしか無いのです。

本来、どんな地域においても、市民が気軽なアクセスできる必要にして十分な内容と規模のサッカー場があり、水泳施設があり、スケートボードのパークがある、そうした環境をオリンピックという機会を活かし、構想し、準備し、市民と共に造り下げていくというのが本来のあり方なのでは無いでしょうか。

オリンピック終焉への弔鐘

7回にわたって書き連ねてきた記事のタイトル〈2020東京五輪強行はオリンピック終焉への弔鐘〉ですが、オリンピックという世界のスポーツの祭典は今や様々な矛盾に晒され、19世紀末に近代オリンピックの組織化に起ち上がったフランスの貴族・クーベルタンが構想し、実践してきた理想のモデルからはあまりに遠く隔たり、今や限界に立ち至っているのではとの疑念からのものでした。

この疑念は、世界を覆ってしまった新型コロナ感染症という特異な現象がもたらしたものではあったのですが、2020東京大会の開催強行を巡る世界中からの疑惑、反対運動(朝日「五輪開催 海外の視線は 「83%が反対、すごい数字」)を蹴散らして強行されるといった余りにも無謀な大会準備と、開閉開式の準備過程で見せつけられた組織委らにみられた五輪憲章とは相容れない、差別排外主義、金満主義に見事なまでに表されていたものと思います。

さらには、既に取り上げてきましたが、元ラグビー日本代表の平尾剛氏などの「五輪不要論」(朝日「(耕論)何のための五輪 平尾剛さん、石坂友司さん、猪瀬直樹さん」)に代表されるように、オリンピックゲームそのものの矛盾がこの東京大会によって「見える化」されてしまったものと言えるようなのです。

さらに言うならば、招致段階での「アンダーコントロール」、「復興五輪」などと、実に政治的で恣意的な色彩で装われ、その実、実態は福島では野球の予選と、ソフトボール競技のみが行われただけで、聖火リレーのコースも、ピンポイント的に除染されただけのごく一部だけが対象となるなど、うそっぱつちも甚だしい、福島県民の怒りを買うものでしか無く、

さらには何をやってもダメだった菅政権の「政権浮揚」のためと位置づけられ、あらゆる反対意見を無視した強引な手法も「無観客」を強いられたことなどもあり、全く冴えない大会として終わらざるを得なかったことなどから「政権浮揚」どころか、「政権失墜」へと帰結するという始末。

放映権料などからの収益でIOCは満面の笑顔だったのかもしれません。
大会準備から運営までその基幹的な業務を担った電通にも、しっかりと収益が転がり込んだかも知れません。

しかし、エアコンのよく効いた部屋で極上のソファに座り、高級なシャンパンの栓を開け、酌み交わすIOC委員らが見守る外では、クソ暑い真夏の太陽の日射しが降り注ぐ直下で、競技が繰り広げられ、斃れていく選手もいたようですし、交通費・食費としてわずかに2,000円を持たされたボランティア(当初はそれすらもゼロ、という前提だったが、あまりの非常識さに支給することに)もヘロヘロで大変だったでしょうし、こうした貴族主義と、奴隷のような犠牲を強いる大会、とても21世紀の形象として、果たしてふさわしいものだったのでしょうか。


大会を盛り上げる立場であったはずの公式スポンサーのトヨタのCM出稿取りやめにも表れた、大会強行への嫌気、企業理念を損なうリスクも見過ごすことはできないでしょうし、巨額の借金を抱え込んでしまった組織委が語られる「オリンピックのレガシー」って、一体何なのでしょう。

連日、4,000、5,000人と怖ろしいほどの感染確認者の報道の直後、TVのアナウンサーのトーンは高まり、メダルラッシュの大騒ぎ。こんなシュールな場面はなかなか視られるものでは無い。

こうして、本大会は五輪の幻想が剥落されていったということでは、意味はあったのかも知れません。
数十年後、東京大会は「オリンピック終焉への弔鐘」が鳴り響く大会だったと総括されるのかもしれません。
それほどに酷い内実をみせつけられました。

スポーツ競技によっては、既に独自に世界規模の大会を行っていますし、何も、あらゆるスポーツを1つの都市で集中的に行う時代では無いでしょう。

それでもなお、オリンピックという幻想を追い求めるならば、ギリシャのアテネに返還させることです。
古代ギリシャのオリンピックを再興させ、各国はそれを全面支援し、競技場を整備し、選手を派遣するのです。

芸術と哲学が、歴史上、もっとも早い時期に華開いたギリシャは、それを行うだけの器量があります。
今後予定されている、パリ大会、ロサンゼルス大会も良いでしょうが、私が観客として参加するならば、もうぜったいアテネに憧れますよ。

Zoroastrian Heritage からお借りしました。多謝 !

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