工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

手鉋の優位性

南京鉋

南京鉋

いよいよ弥生3月。この週末にはJリーグの開幕を迎える。

おどおどとした感じでの春への進行、その歩みは処女の如くとでも形容しようか、定まらぬ天候で木の仕事ははなはだ具合が悪い。
とは言っても、ふて寝するほどの余裕もなく、今日もシコシコと木に向かう。

ところで、どうでも良いことがらながら“ふて寝”、というのは「不貞腐れて寝る」、の意なれど、ふてぶてしく寝る、という意訳ではどうだろう(笑)

さて、戯言はともかく、画像は書棚・帆立の木端面(傾斜したカマボコ面)を仕上げているところ。
南京鉋での削り作業だが、この画像のモノがうちの最も小さな南京鉋。
刃は3分。曲率は?
小さなR面を削る(画像の曲面の場合、約15R)には、これでもまだ大きい。
もっと小さな曲率のものを作らねばダメだ。

この成形工程は‥‥、

  1. 型板から墨付けし、ジグソーでおおまかにカットし(1,800mmを超える大きなサイズなので帯ノコではなく、このジグソーを選ぶ)
  2. 型板でのストレートビットでの倣い成形
  3. そして、内側に大きく傾斜させながらのなだらかなカマボコ面ビットでの成形

したがってかなり良好な切削面、切削肌を獲得している。
そのままサンダーで仕上げができる状態ではある。
が、しかし、ボクは手鉋で一通り仕上げてから、素地調整としてのサンディングに移る、というプロセスを取る。
この画像のように‥‥。

どうしてそんなプロセスを取るの?
手鉋作業に拘っているの?

こだわる(拘る ≒ 拘泥)を辞書で引いてみる。

  1. さわる。さしさわる。さまたげとなる。
  2. 些細なことにとらわれる。拘泥する。
  3. 些細な点にまで気を配る
  4. 故障を言い立てる。なんくせをつける。

などとある(広辞苑)

要するに些末なところに力点が置かれ、本質を見失ってしまうというような意味合いかと、ボクは理解する。
“こだわりの手作り家具”、“スープにこだわったラーメン”、“具にこだわった餃子”、“デザインにこだわったWebサイト”等々、“こだわり”に纏われた物言いは美しく、立派な考えで肯定的というイメージを喚起させるが、実は決してそうではないというのが言語としての元々の解釈。

木工での仕上げ切削ではプロセスなど実はどうでもよいわけで、結果、優れた切削肌をもたらし、さらに作業性が良ければ(≒生産性が良ければ)何でも構わん、とボクは考えている。

したがって

  • サンドペーパーでも、
  • ヤスリでも、
  • スクレーパーでも、
  • 手鉋でも、

何でも良い。

このような理解に立ったとき、そうしたいくつかの選択肢を前にし、どの手法を選ぶかは人それぞれだが、結論的に言えば少なくともボクとしてはいったん他の手法を横に置き(捨て去るのではなく‥‥後述)、手鉋が最も優れた手法であると考えたい。

回りくどい言い方をしているが、手鉋に、“拘る”(本来の字義としての)というわけではなく、現代の日本の木工職人として、まことに当たり前の選択としてのそれであるということ。

ボクは趣味で木工に関わっているのではなく、生業としての側面を強く持つ木工であって、確かに鉋掛けを楽しむ、という快楽的側面を有することあえては否定はしないが、しかしまずもって職業としての木工であれば作業性を無視しての道具選択はあり得ない。

その上で手鉋を選ぶという考え方は積極的に理解されねばならない。

以下、この4月から木工の現場に立とうという読者もいるようなので、もう少し敷衍させて考えて見たい。

ま、こうした話しは過去、このBlogでも何度も語ってきたことなので、古くからの読者には耳タコで恐縮するわけで、斜め読み飛ばししていただければ良いと思う。

手鉋の優位性

鉋がなぜ優れた道具なのだろうか。
鉋に“拘る”人も多いと思うが、なぜそれほどまでに魅了するのだろうか。

何よりもまず、木という素材を対象とした切削において、とても優れた刃物を持つのが日本の鉋である。
元々日本には優れた鍛鉄の製鋼技術が根付いていたわけだが、近代以降、いわゆる刀鍛冶なども工具綱へとその業態を変えるということなどもあり、世界に誇る製鋼後術が木工刃物製造現場へと連綿と継承されてきた。

もちろん高速回転する機械刃物では、高速度鋼、あるいは合金鋼などの開発が必要とされたわけだが、手鉋などの分野ではやはり炭素工具綱の刃物が最も適していることは今も変わらない。

さらに重要なことは、台鉋というその構造の特徴であろう。
上述した仕上げにおけるいくつかの選択肢において、この台鉋という特徴も、木を切削するに最もふさわしい刃物と、ほぼ同等程度に評価されるべきものだ。

つまり台を適切に整えることによってはじめて、作業者の望む切削肌、平滑性、あるいは場合によっては面形状を獲得することができるという圧倒的とも言える優位性である。

以前、ボクがまだこの世界に没入して間もない頃の話しだが、クレノフ氏によるキャビネット制作セミナーでのこと。
緩やかなカーヴを切削する際、当時何も分からなかったボクは反り台鉋でシコシコと削っていた横から、師は静かに語る。君ね、こうしてやってみな、と、小鉋(小さな平台の鉋)を持たせ、斜(ハス)に構えながら緩やかなカーブを一皮のカンナ屑を吐き出させ、削り上げた。

この技法は鉋を少し理解しなければ分からない高度な領域のものだと思うが、要するに、台鉋ならではのテクなのである。
台が削りを制御させ、作業者の望む円弧状のカーブを自らのモノとできるのである。

果たしてサンドペーパーが、果たしてヤスリが、果たしてスクレーパーが、そうした機能を持つだろうか。
いやいや、それらには望むべくもなく、台鉋ならではの優位性なのである。

過度に削り過ぎることなく、必要量だけを、最も適切に木という有機素材の繊維細胞を見事なまでに美しくカットしてくれる。
しかもその切削力は他の選択肢に劣ることはない。
シュルシュルとガンガンと、鍛え上げられた木工職人の上腕の緊張を伴うとは言え、“快楽としての負荷”を覚えながら、パワフルに削り上げることができる。

さらに語らせてくれるならば、木との対話がそこにはある、という点だ。
他の手法では得られない隠れた優位性とでも言えようか。
木肌が持つ繊維の配列というものを繊細なセンサーを持つ手先に感じながら削ることになる。
順目切削であれば、スイスイと快適に、逆目になれば手先に強い反動を感じながらも、腰に力を貯め、上腕をきしませながら、板面を強く加圧し、緊張を維持しつつゆっくりと台を腰元に引き寄せる。
つまり、メタファとしての対話というのではなく、体感としてのそれである。

こうしたことは平滑に削る場合だけではなく、上述のセミナーでの緩やかなカーヴであっても、あるいはTop画像のような不定型な曲面切削であっても、基本的には同じである。

台が有効に機能するからこそ、手鉋はその力量を十分に発揮してくれる。

手鉋の修得は確かに容易ではない

この程度に留めておかないと、読者はいよいよ引いてしまうだろうから止めるが(苦笑)、なにゆえ、手鉋を選択するのかは少しはご理解いただけただろう。

そうした理解を基礎とした上で、必要に応じて先の他の選択肢を考えれば良い。

ただ、既に気づいている人も多いと思うが、手鉋は誰もが適切に使える道具ではない。
他の選択肢のものは、言ってしまえば誰でも使えるだろう。
鉋だけはそうはいかない。
基本的な鉋の仕込み、刃物の仕立て、研ぎ、台直し、それらを一通り習熟しなければ、これまでの解説で述べたことは自らのモノとはならない。

あえて言ってしまえば、木工の修得とは、鉋という道具を習熟するということが基本軸の1つになると言って決して間違いでは無いだろう。

それをはしょって何事かを為そうというのは、少し尊大に過ぎる考え方かも知れない。

この4月から木工現場に立とうという若き職人にとり、期待と不安が緊張を強いているかも知れない。
しかし獲得してきた鉋の技法は、待ち構える困難を最後のところで持ちこたえ、乗り切っていく密かな支えとなるに違いない。

同様にこれから訓練校などの門を叩く者にとり、手鉋の修得を蔑ろにしつつ、薄っぺらなカリキュラムが進行していくだけでは、確信を持って臨むことはできないかもしれない。

鉋を自らのものとすることで、真に木工を愛し、楽しむことができる。

なお、本Blogでは以下のカテゴリーにおいて、この鉋の事柄に関連する記述がされている。
時間があり、興味があるとすればアクセスしてみるのも一興。
木工家具制作でのサンディング
“手作り家具”と機械設備

*注  ただ旧Blog時代の記事であり、このWordPressへの移行で改行などは継承されず、修正されないままのため、はなはだ読みづらいことをあらかじめお詫びしておきたい。

鉋掛け

hr

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 初めまして。過去には訓練校にお世話になり、現在はブログで紹介されている一つの訓練校の内情を多少なりとも知る木工家として、これから訓練される人にこの場をお借りして一言。一例としてお聞き下さい。

    訓練校によっては中卒から定年後の暇つぶし、十数年来の引きこもりや精神疾患、訓練手当て目当てなど、さまざまな境遇の人が集まります。もちろん当方やブログ読者のように、将来に夢を持ってやってくる人もいますが、年齢やレベル差がこの上なく激しいので訓練校の授業中だけでは技術・知識向上は難しいです。
    (年度によっては全体レベルが低く進捗が遅くなる場合もあるし、一番不幸なのは技術・やる気の無い先生にあたる場合もあります。)
    これにめげず早出、昼休み、空き時間、放課後に惜しまず練習すれば手道具の手入れは半年で使えるレベルまで行けるでしょうし、予習復習で先生を質問攻撃するつもりでやっていけば夢に近づけると思います。

    存続自体が厳しい訓練校もある中、さまざまな訓練生を指導しなければいけない先生も難しい立場なんだと思っています。授業料が安価な訓練校に多いのかもしれません。

    偉そうな事を言いましたが私もずっと勉強です。もちろんこのブログも参考になっております。これからもよろしくお願いします。

    • mooseさん、訓練校の現状の一端を示す、ご報告というところでしょうか。
      私が世話になったのは四半世紀も昔のことになりますので、必ずしも現状をつぶさに知るものではありませんね。

      構成する訓練生たちの中には仰るような側面があるのも想像に難くありませんが、これは木工科に限らない、あるいは訓練校という制度下の教育施設に限らない時代的傾向という側面もあるのでしょうか。

      それだけにまた指導教官の方々のご苦労が偲ばれますが、教育現場というものは、指導と被指導の相互交換によってしか有機的で身のある成果を生み出すことはできません。
      訓練生の熱意と真摯な関わりがあれば、指導教官はそれに必要にして十分な教育内容を指し示し、導いてくれると信じます。
      とりわけ、訓練校という機関は実技中心となりますので、その目指すところが比較的明確ですので迷いなく技能修得に励んでもらいたいですね。

      (様々な資質、様々な意識レベルに対しては、指導教官も振り分けて考え、真摯に取り組む訓練生には送り込む職場に恥じない技能の修得を約束してくれると思いますよ)
      これからもコメント寄せてください。

  • こだわるはイタリア人のふりした社会学者パオロ何とかの本にそんな記述がありました。
    artisanさんもそこからですか?楽しくてためになる本でした。

    『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノでした。ネットはなんでも調べれますね。

    本稿からずれたコメントですみません。

    • 桑原さん、コメントありがとうございます。

      >『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ
      浅学でして知りませんでした。

      「こだわる」の用法があまりにも一面的で偏ったものになってきていることを
      どのように解釈すべきか、興味がありますね。
      ぜひまた解読してください。

  •  台鉋の優位性をこんなに明確に書いて頂きすっきりです。言葉パクらせていただきますね。
     「拘る」は僕が学んだ環境ではネガティブな言葉でしたね。 父親はすぐに「何かにこだわるんじゃない!』と言っていましたし、大工の建て方で、刻みのミスや墨の勘違いからどうしても部材が組入っていかない時には「何がこだわってる?」と言ってました。  今でも「男のコダワリ」とか「コダワリの味」という言葉は、押し付けがましい感じがして苦手で、「どうしても拘泥してしまう」などと言ってしまいます。 本当に拘っている部分はなかなか人前には出せませんよね(笑)。
     また毒を吐くようですが、今の学校で木工を学ぶのは無理ですね、基礎・基本という概念を無視してやりやすいように木工というものを定義付けてこなしていっても結局、やっている本人に満足は無いように思いますが、、。趣味、日曜木工ならいざ知らず、プロとして木工をやりたいのであれば、もっと自分の尺度だけでなく広く色々な木工を見るべきで、そこから自身で経験を積めば自ずからいろいろと判って来ると思います。生意気申し上げてすみません。
     

    • 学校を否定するコメントされているので申し上げにくいのですが、学校での指導は十分ではないかもしれません。しかし、広く色々な木工を見る中の一つとしては良いと思いますし、木工への入口としては機能していると思います。また、どこで学ぶとしても受け身の姿勢ではプロには届かないでしょう。自分がプロになれない理由を指導者のせいには出来ないでしょうから。

    • たいすけさん、あなたはお若い方なのに言語認識がスマートです(ちょっと驚き !)。
      言語には厳しいお父様だったことは分かりますが、「拘る」の本義が見事に息づいていた方だったようですね。
      確か私とは1ジェネレーションしか違わない方であったはずですが、メディア言論の荒廃であったり、言語の扱われ方の浮薄さに抗すのがとても困難になってきている中で、正しく次世代へと伝えているということに眩しさを覚えます。

      >基礎・基本という概念を無視してやりやすいように
      >木工というものを定義付けてこなして‥‥

      ↑にも書いたことの追補になりますが、
      訓練校も実は様々で、たいすけさんのように厳しい評価をせざるを得ないところもあるというのが実態のようです。
      ぜひ、訓練校という制度の中にあって、よりよいカリキュラムを有し、高い教育意識と有能な指導教官がいらっしゃるところをリサーチしてめぐりあって欲しいものだと思います。
      様々な制約の中にあって、私の知る限りでも、まだまだがんばっているところはあります。

      その上で、「自分の尺度だけでなく広く色々な木工を見るべきで‥‥」
      は、全く同意できるところですね。
      良いものを訪ね、優れた先達に教えを請い、木工に勤しむ上でのベースのところを豊かに鍛えつつ、勇躍飛び立ってもらいたいものです。

  • mooseさん、あなたの仰る事は理解しているつもりです。
    このBlogを起ち上げて間もない頃、訓練校に関わる基本情報の一端を集約し、ご紹介するという試みも行ってきましたが、日本における木工加工技術の基礎的教育機関の主要な一翼を担っているのが、他でもなくこうした訓練校(技能専門校)であることに違いはなく、社会的に有用な機関です。

    >自分がプロになれない理由を指導者のせいには出来ない
    行政上の(雇用政策、職業技能開発に伴う社会的負担への市民的合意形成)様々な制約があることで、カリキュラムがわずか1年という(機関によってはさらに短く、わずかに半年間というところもある)のは、技能修得期間としてはやや無理があります。せめてその倍の2年は欲しいところです。
    もちろん、こうした環境整備には、一方ではmooseさんご指摘の訓練生の資質も問題にされねばなりませんがね。

    ただこうした事を公的教育機関に担わせること自体、やはり無理があるのではと言う問題意識もあります(たいすけさんの後段の指摘にかぶるところですが)。
    つまり、木工所などの実践現場への新人養成への経済的な支援など、多角的に論じる必要もあるでしょうね。
    現状においては「伝統工芸の支援」などと高らかに謳っていながら、新人養成に何らの支援もないのが実態です。

    • artisanさん、コメント有難うございます。ご理解されているということは予想していましたが、このブログの読者に訓練校を選択の一つとして検討すること自体が間違いであると取られるのを危惧していました。
      訓練校によっては、1年コース中の1ヶ月程度を企業研修とする所もあります。昔には無かった良い点の一つでしょうか。受入れ企業には多少の補助金も入るようなので、就職は無理と考えていても研修は受け入れてくれる所もあるようです。

  •  訓練学校を木工のスタートとして選択されることを否定したつもりはありません。誤解を招いたようで失礼を申しました。
     学校には卒業がありますから、当然学ぶべきことの多くは学校以外にあると言いたかったのです。導入をアカデミックな場所によるというのはあるべき形ですが、アカデミックな場所を肯定し過ぎてその後の修行に差し障りがあると困ります。
     基本を教わる場所というのは本当に大切です。カリキュラム優先な場所では「これをやればいい」という考えが大きく作用します。「◯年間で工具の習得はおおよそできました」、「研修で実際に出荷される製品を作りました」という風に成果を持ちかけられて返事に窮しているのが僕の現状です。 手応えが無いからこそ「出来る」と言われるのでしょうが、それは100点がある世界での話、100点が無い世界に入り込むには、学校では学べない、という位の気持ちを持って向かって欲しいものだと思っています。

  • Blog管理人である私の議論の展開の稚拙さもあり、コメント氏に負担を掛け、齟齬をきたしてしまったかもしれません。
    恐らくは問題の背景には、本来であれば実業の場でじっくりと時間を掛けて修行していくという、近代以前の職人養成社会システム(徒弟制度などの)が担うべきところを、近代以降の様々な社会的変容の中で、そうした環境は失われ、これに替わって教育機関が担うようになってきていることでの、ある種の“無理”があるのではないでしょうか。

    つまり工芸的要素を含む木工芸の技能修得というものを、合理的な諸制度の中での「教育」の対象とすることのある種の“困難”を自覚的に受け入れるということがそれぞれの当事者(訓練校サイド、訓練生、さらには受け入れ先の木工所、家具製作会社)に求められているわけですが、いずれかがそうしたことを無自覚なままに考え、振る舞うと、様々な行き違いが生ずるということにもなるでしょう。

    噛み砕いて言いますと、
    訓練校のカリキュラム、あるいは指導方法を、近代的な教育手法で組むだけでは、こうした分野のワザの伝授は無理があり、

    一方、生徒の側も、教科書通りに覚えれば、何某かの技能が身につくだろうという取り組み方では、これらのワザの真髄には接近できないでしょう。
    指導教官の手先を凝視し、自らそれを真似、何度も何度も繰り返す、というような振る舞いも必要になってくるでしょうし、

    受け入れる木工所では、教育されてきたからには、ちゃんと一人前に働いてもらわねば困る、といった過度の依存は間違っているのであって、訓練校という機関の特性を良く知り、現場でこれを活用させつつ実践的に養成していくという姿勢が求められます。

    それぞれが、技能修得の道のりというものの特異な在り様というものを自覚し、あるいはその限界を知り、相互補完的な有機的関係を取り結ぶ中から、現代社会と木工芸の世界に横たわる様々な困難を突破し、未来を展望したいものです。

    私は決して悲観的ではなく、近代というものが現在のように様々な隘路にぶつかり、問い直されつつある中で、こうしたある種、非近代的とも思える手業の世界はいよいよ再評価の対象とされ、社会的価値もより高まっていくだろうとオポチュニスティックに考えています ♪

    (実は、かつてこのBlogの中で、訓練校での指導内容についての問題性を指摘したことがありました。
    最も基本的な汎用機械で、もっとも基本的な加工作業を、キケンだからとやらせない、といったことなどです。
    いわば過度な管理主義的な考えが先行し、生徒に訓練の場を奪っているとさえ思わせる実態への警鐘でした。
    これはまた機会があればあらためて考えたいと思います)

  • こんばんわ^^
    ご無沙汰してます。

    現役訓練生としてコメントします。
    他の訓練校は見学に行ったこと無いので分かりません。

    私の通う訓練校は山奥にあり、木工を学ぼうという意欲の高い人達しか来ていません。(今年は)

    先生方の技術も高いと思います。

    しかし、1年という訓練期間は短かく、訓練生の意欲の違いにより学べる内容も違ってきます。
    私自身一年間高い意欲を維持し先生達から様々なノウハウを引き出せたとはいえません。
    が、新しい職場での修行において学んだことが少しは手がかりになるかなと思っています。

    手鉋の優位性を生かせる職人になりたいです。

    春からだいぶ近くなるので機会を作ってお伺いさせて頂けたらなぁと思ってます。

    • ぽーるさん、いよいよ巣立ちの時、ということのようですね。
      昨年、私の名古屋松坂屋における個展会場にはあなたが在籍される訓練校から、先生を含む多くの若き木工志願者が訪れ、暫しの交流を持たせていただきましたが、皆さんとても熱意ある有為な方々ばかりと拝察いたしました。
      訓練校における指導内容において、高度なものを継続的に提供していることでは、恐らくは全国的に見ましても希有な事例なのかな、と高く評価させていただいています。

      それぞれに高い意識とあふれんばかりの熱意を持って現場へと出向いていくことでしょうが、木工の現場においてこそ、その真髄が隠されていることに気づくこともあるでしょうし、一方理想と現実の狭間に苦悶すると言うこともあるかもしれません。

      様々な困難も修得した技能を基礎として、これを磨き上げることで乗り切っていくことができるでしょう。

      また一方、過度に訓練校時代の手法に“拘泥”することなく、軽やかなステップで現場対応できる姿勢というものも大切かも知れません。

  •  artisanの懐の深さに甘えてしまいました。気を遣って頂くことになり申し訳なくも有り難く思って居ります。
     僕自身、修行中は自分の環境に満足して居りましたしこれがベストだと思っている所がありました。が、その危険性を正してくれたのは他でもない僕に指導をしてくれる諸先輩であり、環境を作って下さっていた親方でもありました。
     そんなことから、「ここではないどこか」のことを気にするようになりました。
     気にしすぎて却っていけないのかもしれません、今後共ご指導をよろしくお願いいたします。

    • たいすけさん、そのように受け取られてしまったというのは、逆に私の懐の浅さ、不徳を示すもの(反省)
      新人養成における教育機関と、現場におけるそれは、自ずから目的も手法も異なりますが、それぞれの環境において真摯に取り組み、自らを鍛える場として臨むということでしょうか。

      たいすけさんの「ここではないどこか」という姿勢こそ現状に甘んじない進取の精神の発露でしょうから、好ましい思考スタイルではないでしょうか。
      (最後段は余分だったかも知れません)

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