工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

友人の悩みの前に立ち竦む

皆さんのところでも今宵の満月は天空に美しく輝いていることだろう。
見上げる月は今日のボクを少し感傷的にさせる‥‥。
ここ数日立て続けに3人の友人から電話、メールが入る。
普段あまり所用の無い限り連絡してこない人ばかり。
一人は内容が内容だけにかなり深刻な訴え。
一人は木工の先輩筋に当たる人だが、仕事、家庭の悩みを訴えるもの。
もう一人も木工の友人で、本人も参加する展覧会会場のプアさに嘆息を漏らす。
深刻なレスキューのメールは疾病に関わる話し。
ちょっと無沙汰していた高校当時の友人がその相手だが、悪性の癌を発症。
部位を摘出するも、日々の食事も含め、生活の維持もままならないような状況のよう。
業界最大手の優良企業に勤めて40年。退職まで数年残しての無念なリタイアを余儀なくされたようだ。
会いたいとの言葉はなかったものの、長文のメールを寄こした彼の置かれた身の上を考えれば、やはり寂しくなり、旧友に心情を吐露したかったということなのだろうか。
普段健康の時は、自身の体調を気遣うと言うことはなかなかできない。
どちらかといえば、欲望の赴くまま美食に飲酒を重ね仕事の疲れ、ストレスを発散するということもあるだろう。
あるいは会社員ともなれば部下の悩みを聞きだし、先輩としての適切なアドバイスを与えるための席を用意しなければならないこともあっただろう。
励ましの言葉で足りるならいくらでも差しあげるが、その性格を知る者としては安易な慰めなどどれだけ助けになるのか。
まずは話しを聞き、訴えを受け止め、静かな時間を共有することしかできないだろう。
いつもなら酒を肴に昔話に興ずれば良いが、今回はそうもいかず果たしてどんな具合になるのか。
二人目は地方の町で良い木工をしている人だが、年齢とともに変容する家族関係が新たな生き方を求めてきていることでの悩みのようだ。
ボクからすれば少し贅沢な悩みではある。
しかし誰しも順風満帆の時が永遠に続くことなど信じられるわけでもなく、また残された人生をどのように構想するのかを自問自答する時期に入ってくれば、新たな悩みも出てこよう。
三人目は本人も参加したある展覧会の設えがあまりにもプアであることを嘆くもの。
ファインクラフトとして位置づけられたいと願うものの、例え高品質な木工芸ではあっても、日本のアートの世界ではまだまだ相応の評価とふさわしい敬意を与えられないという彼の嘆きには、深く同意する。
この問題の根は深い。様々な問題があるだろう。
国内のこの世界で権威と見られる先生方の語る言葉は本当にボクたちにびんびんと響いてくるものであるか。
広く世界を眺めると、個人の木工家という存在様式がこれほどまでのボリュームで活動できる特異な状況というものは、日本特有の木工の伝統と文化の豊かさと、そしてそれがもたらす幾分の湿った社会状況はボクたちを多分に甘さという罠でくるまれることで眼鏡を曇らせ、美の基準から自らを遠ざけているのかもしれない。そうしたことへの冷徹な評価は受容せねばならない。
日本の木工家具の歴史は深い、しかし近年のモダンファニチャーというカテゴリーにおいては、まだまだ欧米に比肩できるほどの深い歴史を刻み込んできているわけではない。
やはりまたしても問題は、日本の近代史の特異さに阻まれて、正当な評価を受けることの困難さがあり、伝統というものから与えられる恩恵と、一方それと裏腹な狭隘さの前に立ち竦んでしまうということに示されるある種の宿命。
あるいは経済の低迷がもたらす展示空間への予算措置のプアさというものも、残念だが共有されねばならないことであるし、しかしそのセンスと見せ方によってはいくらでも作品を輝かせることができるということも、経験的に知っている。
ここでも問題はこれを担う個人の資質であり、関係者が問題を自身の課題として捉えるという関わりの在り方というところに帰結するようである。
ボク自身の悩みはどうなのかい?
あっぱらぱ〜、とやっているようで、等し並みに小さい悩みはあるさ。
埼玉スタジアムからも望めたであろう満月の下で戦われたワールドカップ(W杯)アジア最終予選、対ウズベキスタン戦、ドロー。
後半戦、パスを繋げて何度ものシュート機会もGKに阻まれる。
決定打が生まれない日本チームの問題の根も深い。

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