工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「木」の大学講座 2015 「樹木と人間・動物のかかわり」〜ブナの時間・トチの時間〜(その4・おわり)

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「大学」とは

これまで3回にわたり、《「木」の大学講座 「樹木と人間・動物のかかわり」〜ブナの時間・トチの時間〜》の参加リポートをお届けしてきました。

しょせん取るに足りない一介の木工家具職人でしかない私の知見は狭い範囲のものでしか無く、普段からこの種の学問へと深く渉猟することもなければ、喜々として森林探訪へと足を踏み入れることもそうあることでは無かったというのが実態だったわけです。

工房に籠もり、しごとに追われ、日々木材に向かう生業と、その背後において拡がる森の豊かさ、あるいは多くの課題に直面している森の疲弊と国産材の枯渇といった状況は、必ずしも所与の関係として結びついているわけでもないからです。

また、この種のジャンルの実学的な講座が設けられるということも、寡聞にして知りません。

一方、林学、営林学、樹木の植生学、樹木の細胞物理的な学問など、個々の専門的な領域では、権威ある公的な教育機関におき、明治近代化以降、旧くから設けられ、積み重ねられてきているわけですが、これら個々の領域を越え、学際的にアプローチされる学問分野は決して多くないのかも知れません。
良く言われるところの、タコツボ化、という奴です。

苔むした高樹齢ブナの根に目を奪われる

苔むした高樹齢ブナの根に目を奪われる

さらにまた、様々な実業に就き、その現場から経験的に獲得され、そうした知見というものが集合知として共有化され、やがてはオーソライズされていく、などと言ったことは、これまで余り試みられなかったことなのかも知れません。

そこには学問というものの、ある種の権威主義であったり、閉鎖空間での抱え込みによる自己完結の場であったりと、実学とは切り離された傾向から自由では無かったことからくる陥穽というものがあったのかも知れません。

学問の最高学府であるのが大学ですが、近年、国公立のそれらは独立採算制を強いられると言ったこととか、本年に及んでは文化系など不要と言わんばかりの文科省による大学制度の改革案からは、大学そのものの「存立危機事態」が危ぶまれる有り様です。

また70〜80年代以降の日本の森林の荒廃は、その最大の需要産業である住宅建材が、国産材を切り捨て、圧倒的とも言えるボリュームでの米国材の輸入から市場を席巻していることに大きな要因があることは論を待たないことだろうと思います。

自動車を典型とする輸出産業は洪水のように米国市場へと雪崩れ込み、それと引き替えに米国産材木が日本国内市場を席巻する。

こうした貿易における構造的な歪みが日本の森林を荒廃させてきているわけですが、日本資本主義の特徴とするのが年単位の貿易収支、時々刻々更新される株価などの推移に目を奪われる近視眼的、視野狭窄的な経済運営を専らとし、日本国土の維持、持続可能性のある発展などは視野に入らないという、実に浅ましい新自由主義的な運営で事足れりとされているかのようであるわけです。

大学制度の改革もそうした路線への適合化という流れの中でのことなのでしょう。

モノ作り、木工業の現場と森林

私たち木工を実業とする者が求めているのは、これまでの牧歌的な時代の中から徐々に生じてきた、豊かな森であった日本の森林が荒廃し、この先いよいよ林業経営が困難となり、モノ作りの現場においては、こうした豊かであったはずの森林資源の活用もいよいよ困難になりつつある現状というものを突きつけられ、今後いかに持続的に営んでいくのか、という、恐らくはかなりの程度で逼迫した課題への、有為なるアプローチなのだろうと思います。

いえ、そこまでいかずとも、日本の森林が、今どうなっているのかという、モノ作りの現場でスルーしてしまっている課題に対する有益な情報提供が求められているのは確かなところでしょう。

この問題意識からすれば、今回の「木」の大学講座 2015 「樹木と人間・動物のかかわり」は、有為な試みと企画であったように思います。

「木の大学講座」とは何か

そもそも「大学」とは学術研究と教育の最高機関、ということになりますが、「大学校」という名称の機関とは異なり、学位の授与などといったものは無いものの、学生はもちろんのこと、社会で自立した専門職を含む有為な人材が集い、そこにテーマに関係するプロフェッサーが講師として馳せ参じ、ともに講座を開く。
そうしたユニークな機関と制度を「木の大学講座」として定義づけるのは、大学という実態が揺らぎつつある現代の社会にあって、面白い試みだろうと思います。

「大学」とは定常的な施設や機関などを指すだけでは無く、専門的なプロフェッサーと、実務的な協力者を得、自律、自立した意欲的な人材が集う場があれば、そこが「大学」であって良いわけです。

木の大学 講師:阿部蔵之

木の大学 講師:阿部蔵之

そこで学際的な学問、研究成果を共有し合い、自身の職域において有用なものであれば、現場に即取り込むこともできるでしょうし、例え関連が薄いテーマであったとしても、自身の職域において、仕事における豊かさに繋がり、また新たに獲得された知見から、世界への理解も深まろうというものです。

今般の「樹木と人間・動物のかかわり」は、テーマとする樹木と森のふもとを会場として催され、樹木にもっとも近い立場での専門職の方々の協力を得、開催され、参加者の多くが新たに多くの知見を獲得することになったものと思います。


阿部蔵之氏主宰による、この試みの実績は、Webサイトにも明かですが(こちら)、こうした事業は個々の自立した社会性が無ければできませんし、高い識見と意欲、「木の文化と木の仕事」への深い愛、深い情熱、深い洞察力が無ければ企画することなどできません。

私の木工への接近と「大学」の意味するもの

私が木工を志したのは、80年代、灰色の社会人生活にドップリと浸かり、青春に別れを告げつつあった30代も半ばになってからのことだったという事情もあり、木工に勤しむことの意味づけへの問いは強いものがありました。
一方、志とは言え、若者のようなひたむきな情熱とは少し異なり、やや冷めた視線でのものであったかも知れません。
そうした個別の状況を抱えながら、木工に勤しむことの意味づけ、意志を確認するためのものとして、木の仕事から、木に纏わる様々な分野の書物にアクセス、研究し、そうした不安を埋めるための準備に励んでいたものです。

時間があれば広尾の都立中央図書館、あるいは霞ヶ関の国立国会図書館に通い、一般には入手不可能な旧い文献にアクセスするといった日々を送ったものです。

まさに「木の大学」へと孤独の状況の中でアクセスしていたわけです。

そんな初発の意志から、30年近く経過し、日々の木工を通し、己の身体の中に刻み込まれた、確かな木への識見を備えた今、またあらたな次元から「木の大学」で学ぶことの意味は大きなものがあるように考えています。


今回の講座を終え、その後主宰者の阿部さんとお話しする中では、できれば継続的に企画して行ければ良いのだが、との独白もあり、期待したいところです。

阿部さん自身の企画意図の背景には、私の思いとはまた異なった、混迷する現代社会への危機意識があるようで、そうした状況へのブレークスルーの場として、「木」をテーマとして、様々な人を繫げる場を作りたい、という思いが垣間見られます。

問題は大きく、長い射程におよぶ事業で、そうした事柄の性格上、常識的には公的機関、あるいは確固とした組織を持つ機関が企画し、準備するというものであるのかも知れません。
個人で企画し、準備するという手法がいかに困難であるかは、私などには想像を絶するほどのものがあります。

しかし逆に個人だからこそ、より魅力的な企画が起ち上がり、そこに高い意欲を持った人々が協力の手を挙げ、手弁当で馳せ参じ、大きな事業を成し遂げていくといったことも可能になるのかもしれませんし、事実これまで多くのことを成し遂げてきたわけです。

私たち木工屋の周囲には、様々な人が現れ、いろいろな事をアドバイスし、時には連れだし、酒を酌み交わす、などといったことは少なく無いでしょう。
ただ多くの場合はモノ作りのただの作り手として重宝されはするものの、持続的な関係強化であったり、依頼される仕事を通し、やがては相互共に業務が強化される。あるいは業務を通し、社会への貢献へ繋がるといった事はなかなか難しいのが通例でしょう。

ひどい場合は依頼者とモノ作りの現場には陰に陽にヒエラルキーが持ち込まれ、何のために木工をしているのか、自己嫌悪に陥ってしまうこともあるかも知れません。

共同作業の場合、私たちにとっては自立、自律した個人として責任を負い、自己批評、相互批評を通し、より高い次元での成果を希求し、精進する。

その過程はしたがって、より楽しく業務に打ち込み、その成果を共に確認し合えるという在り様。
そうした望ましい関係性が打ち立てられないと、良いモノは産み出されないでしょう。

こうした“希望のプロジェクト”としての「木の大学」、今後どのようなものとして企画運営されていくのか、大いに楽しみなことでもあるのです。

講座・フィールドワークを終えて

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    シーダーマウンテン校主どの

    • 大学制度も、職業教育制度も、大きな曲がり角にあるようです。
      日本には古来から自然と不可分に繋がり、融合し、そこから精神的豊かさ(あるいは原始宗教的対象)や、生活の糧を得ていました。
      わずか100年、いえ数10年前まではそうでした。

      日本の近代化はそうしたものから離れ、排除し、エセ合理主義への信奉の結果、先人が培ってきた自然素材への利活用を疎んじる生産活動に邁進するものでもありました。
      日本の生活文化はそれまでの数千年、数万年の歴史が、わずか数10年で激変してきたわけです。

      ポストモダンの思潮以降、そうしたことへの自省的な揺る戻しがあるわけですが、現政権の新自由主義的な政治経済思想では、森林の荒廃や、自然素材を主材とするようなモノ作りを切っていく方向性は変わらないばかりか、税収減の状況の中、不可逆的なものになりつつあるようです。

      モノ作りは図面があれば複製できるというものではありませんね。
      手業は人から人へと身体性を持った継承でなければ、ホンマモノとしては生き残れません。

      私たちに課せられた責任は重いものがありそうです。
      「木の大学」はこうした潮流にクサビを打つ試みでもありますね。

      ・・・私もクレジットフェイスを備えるよう臨みたいところですが、
      こればかりは本人が望んで備わるものでも無いわけでして・・・

      これからも厳しいご指導をと、願わねばなりませぬ。

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