工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「手作り家具」って?

うちでは家具制作をしている。
その手法は木工技法においては世界に冠たる日本の伝統的木工技法に依っている。
木工技法はとても構築的でロジカルなものであり、恐らくは近代以前にあってはかなりなハイテク技法体系であったに違いない。
産業革命、近代以降にあっては動力の活用というものが自由になり、機械化していくことになったのは必然だった。
これは加工プロセスの生産性を飛躍的に伸ばすとともに、制作精度の向上に寄与したことも確かなことであったであろう。
しかし一方こうした近代化を受け入れていった過程というものは、もの作りというものの本質のある部分を失っていくこととの引き替えでもあったということは自覚的でなければならない。
モリスのアート&クラフトという提唱もこうした機械文明による陥穽へのアンチテーゼであったのだが、彼の業績であるモダンデザインの生活レヴェルへの社会的普及というものは産業先進国であるイギリスという国であってはじめて為し得たものであり、近代という時代の賜物であったということも見逃せない事実。
そうであればモリスの手作りの復権という志の高い提唱というものも実は逆説的なものであったと言うこともできるのではないだろうか。
モノに限らず、近代以降の我々の世界というものはこうした逆説というものから逃れられない宿命にあるのかも知れない。
近代というものに規定されながらもこの時代に誠実に生きていこうとするならば、こうした逆説という問題にはやはり自覚的でなければなるまい。
モリスらのアート&クラフト運動から130年ほど経過した今、その間に大衆消費社会を迎え、生活レヴェルでの家具の世界を見ても我々のウサギ小屋にはあふれんばかりの調度品に囲まれているという状態だ。
一方モリスの懸念した機械文明がもたらす非人間的な生産現場というものも極限の状態にまで来ていると言って良いかも知れない(ワーキングプアと言われる労働者の忌むべき実態を見よ)。
製作される家具も金太郎飴のようなものばかり、素材も美しい木目で飾られていたとしても実は工業製品に置き換えられたものであり、ついにはヒトの生存をも脅かす化学物質による汚染の原因物質と成り果てるという始末だ。
さて我々の作る工房家具とはこうした近代という時代がもたらした弊害から脱し、本来の健康な姿としての木工品というものを取り戻そうとする作業と言えるかも知れない。
しかし近代という果実をもぎ取り口にしてしまった現在、近代以前の生産形態へと立ち戻ると言うことは困難。いやむしろそれは社会的にほとんど許されるものではないだろう。
近代という果実を味わいつつ、そこからもたされる弊害というものを自覚することで、現代という時代ならではの品質を世に問うことも出来るのではないかと考えていきたい。
つまり近代化された生産形態の環境を受け入れ、これを自覚的に使いこなすことで、より生産性をあげ、精度を高め、総じて高品質な木工家具を作ることは可能となるのだから。


さて前振りが冗長に過ぎたが、いわゆる「手作り」という物言いについては過去何度か辛口な評価をしてきたことがある。
・手垢に汚れた言葉
・機械生産のどこが悪いのか
・品質評価の単なる属性でしかない
 などと。
ボクの知人の木工家で電動の工具と言えば、ポータブルの丸鋸しか持っていないという指物の作家がいた(過去形)。伝統工芸の世界の人だった。
彼の仕事は紛うことなく「手作り」と言って間違いがない。
こんな人は実に奇特だ。絶対的な信念と、そして世捨て人たるを恥じない強い精神力なくしては存在し得ない。
一方凡人のボクの仕事はとことん汎用の木工機械を駆使するものだ。
したがって殊更「手作り」などと言うことはない。実態とはかけはなれた物言いになるだろうから。
確かに「手作り」という文言には機械文明に抗するような牧歌的な響きがあり、また量産家具というものへの批評が込められているとも言えよう。
様々なジャンルの工芸の中にあって、木工という分野は冒頭述べたように実に構築的であり、ロジックなものだ。したがってその作家の美意識、感性だけで勝負できる世界ではない。様々な工程において一つ一つの技術を積み上げ、長期にわたる習熟により達成できる練達の世界なのだ。
この習熟という対象は現代に於いては手工具のみならず木工機械のて徹底した習熟無くしてはあり得ないというのが賢明な考え方だろう。
したがって家具というものの品質の本質というものを考えたとき、この「手作り」という概念は多くの属性の1つにしかすぎないのではないかという問いは決して的の外れた議論ではない。
さらにまた言い換えれば、品質のその主要部分を「手作り」という概念で評価させるという考え方というのは、近代を経てきた我々にとっては自家撞着でしかないということにもなるだろう。
実は機械生産ならではの環境がなくしてはあり得ない品質の高さ、美しさというものの方が市場を圧倒していることは確かなこと。
家具においてもしかり。
確かに量産家具の全く魅力を感じることのない、つまらないモノが氾濫していることも確かだが、一方ではとても魅力的で品質の高い機械生産によるものも少なくない。
ボクのもう1人の知人の木工家は、徹底的に汎用機械(昇降盤などの)で攻め、極限まで機械で仕口のディテールを造り上げるというすばらしい技術を魅せてくれる。
まさにマシンエイジならではの美というものがそこにはある。
彼も当然であるが殊更に「手作り」などと言うことはない。いやむしろそうした物言いを恥じる。「ぼくは手道具は下手だから‥‥」
いや恐らくはかなりの練達な使い手であることは違いない。しかし機械生産での追随を許さない技法と攻めを誇りとしていることからの自己評価だろう。
ここには道具というものが手の延長であり、機械というものが手工具の延長であることを無意識のなかに体得し、自家薬籠中のものとしていることを見る。
家具制作においては素材が自然有機物という特異性から、そのプロセスによっては手加工を優位とし、あるいは機械加工の方を選択するというのが当たり前の方法論であり、何ら恥ずべき事ではない。
恐らくは多くの指物作家、伝統工芸作家は同意してくれるはずだ。
知人の日本工芸会・会員の優れた木工家はとてもモダンなスタイルでの加工手法を得意とする。
美と品質というものは機械からであろうと、手からであろうと、その本質の主要なところを示すものではないからだ。
つまりは、その作家の精神、デザイン力、技術力、美意識、総じて人間性というものが偽ることなく作品に体現してしまうというのがもの作りの素晴らしさでもあり、怖さでもあるのだろう。

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