工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

冬ざれた午後の工房

午後の休憩
今日の記事はどうでも良いつまらない話しなので読み飛ばしてください。
(いつもそうだろって?、まぁそう言わずに……)
当地静岡は今日は終日曇天で冬のような (?)一日。
昨日設置した薪ストーブの暖かさが身体に染みいる。
うちでは午後の休憩は夕刊が届く4時頃となっているが、通常6時過ぎまで励んでいるので頃良いタイミングかも知れない。
薪ストーブの暖かさは輻射熱なので温風ヒーターなどと違ってソフトで身体全体を包み込むよう。
しかし工房の建物は天井も高く(7mほどかな)広いし、また鉄筋ではあるものの無理やり増築したということなどによりすきま風も入り、全域に効かすのは土台無理な話だ。
これからは身繕いもしっかりと冬装備で臨まねばならないだろう。


例えば、つまらない話しで恐縮だが、Tシャツと作業着の間に、2レイヤーのリバー・ドライバー・シャツ(L.L.Bean)というものを着込むのが10数年来の装いになってる。薄いインナーだが表はウール混紡、裏がコットン素材。したがって保温性が高く汗の吸収も良い。
今流行の高機能新繊維などではなく、昔からの定番冬用アンダーウェアだ。
職人にとって作業の合間の休憩時間はとても重要だよね。
ボクとしては夕刊をチェックするのが楽しみなのだが、作業の工程を確認するということにおいても休憩時間は大切。
その後木工機械に向き合えば、一気呵成に加工プロセスを滞りなく進める。
準備不足だと機械に向き合っても押しボタンSWを押す前に頭をふりふり、考え考え、ちっとも進まない。
安全かつスピーディーに、滞りなく、無駄なく加工するには、事前の準備と柔軟な頭脳が必要。
例えば、横挽きの丸鋸をセットしたならば、この鋸で加工できることのほとんど全てをやり終えること。
1度胴付き加工のセットをしたならば、2度と同じセッティングはできないものとして、全てをやってしまうこと。
と言ったことなどは、元親方から徹底して仕込まれたものだ。
そのためには図面を前にしての事前の徹底した思考が必要。
これは余談だが、多くの職人がいるような工場では1つの機械を複数の職人が使うことになるが、そうした環境においては、上述した課題は職人にとりある種の死活問題になる。
おたおたしていたのでは周りの職人からどやされるだろうし、要領の良さ(合理的思考のできる職人)と技量の差は歴然としてくるだろう。
こうした環境で揉まれた職人は必然的に練達した職能が備わるものだ。
ボクは独立仕立ての頃は、仕事を終えて床につくまで、翌日の加工プロセスを徹底して考えつくしたものだった。
今ではヘタレ。こんなBlogなどやってるせいもあるかもしれないが、やらなくなってしまった。
それまでの経験で何とか現場対応できる能力が備わってきているとも言えるだろうがね。

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  • 段取りと目配りですね。
    ほんと大切です。
    わたしもいつも新人にやかましく言ってます。

  • ユマニテさん、こんにちは。そちらでは木枯らし吹いてませんか?
    >段取りと目配り
    木工に限らず、でしょうけれど。何事においてもそうですね。
    木工加工の分野では、構造全体の認識力、細部にわたる“目配り”、これらは木工への情熱とたゆまない経験の蓄積によって担保されるのでしょう。

  • 裕次郎に代わりて詠める歌:
        冬ざれの午後の工房寒ければ
            薪のストーブ今年もつかう
    きょう、新幹線で東に向かって大井川をわたるとき、
    山々がくっきりと五重に重なってみえました。一番
    奥にみえたのは、南アルプスかなあ……。
    富士川をわたるとき、おう、あざやかに富士がくろぐろと
    雄姿をあますところなく、みせてくれた。
    その頭には、白いものがわずかにかぶっていた。
    富士は、広大な裾野に支えられ、30度の勾配でぐんぐん
    のびていくところが、得も言われず美しい。
    とくに西側は、なにもじゃまするものがなく、単独峰だから、世界に類をみない貴婦人ぶりを発揮している。
    「冬ざれた」は、気に入らん。「冬ざれ」は名詞であって、
    動詞ではありません。
        冬ざれや小鳥のあさる韮畠
                     与謝蕪村

  • おやおや彦左衛門どの、東京への出張のようですね。
    やや雲の多いお天気で眺望は今ひとつだったでしょうか。
    「冬ざれた」は気に障ったようで詫びておきましょう。
    最近五輪真弓が10数年ぶりとかでアルバムをリリースされたようで気になるところですが、彼女の歌には《冬ざれた街》(1974)という名曲がありまして、ちょっと好きだったのですね。
    名詞が「○○た」と動詞に活用されたものとして許されよ。
    でもGoogleで「冬ざれた」を検索したら、五輪真弓の次の2番手に、この記事がきちゃっている。ちょっと文部省審議官に見られるとまずいかな?
    http://www.itsuwamayumi.com/

  • いやいや、裕次郎君、こちらの認識不足で
    失礼をば。
    言葉って、それを使う人が多くなれば、いつしか
    世の中に認知され、市民権を得ていくものです。
    だけどなあ、貴君のがNo.2では、まだまだ先は
    ながいかなあ……

  • うーむ、彦左衛門殿は、どうも古臭くていかん……。
    《冬ざれた》って動詞活用させるのも、斬新でいいじゃないか。“冬枯れの”では、当たり前すぎてつまらない。蕭々たる枯野、北風の吹きすさぶ師走の街などは、《冬ざれた》としか表現できないもの――。
    そこで、次のような詩ができた。真弓さんの亜流ではないよ。
          《冬ざれた季(とき)》
    冬ざれた野をゆき なにも思うことなく
    冬ざれた街をゆき なにも願うことなし
    冬ざれた野をゆき 蒼く鎮まる氷河をわたる
    マンモスに出会い
    冬ざれた街をゆき いまも革新に燃えている
    風雲児に出会う
    冬ざれた野は どこまでもうつけて眠り
    冬ざれた街は 当分起きだしそうにないが
    冬ざれた野のむこうには 雲雀がかしましく
    さえずっており
    冬ざれた街のむこうには 灼熱の太陽に焦が
    されて槌音たかく働く人々がいる

  • 冬ざれた野と、冬ざれた街、とを陰陽の対比で捉え、より鮮やかに映し出す手法はさすがですね。
    閑話休題。
    言語表現も時代とともに少しづつ変容していくのも仕方が無い、と思う反面、ネット上の言葉の乱れ、悪文の氾濫には辟易します。自身もそれに荷担していることを強く自省しなければいけません。

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