工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

人生はまだこれから

親しい友人に晴耕雨読の男がいる。
決して大きくはない田畑を抱え、稲を育て、野菜を収穫する。
夜遅くまで読書に費やし、そして時折著述に精を出す。
気になる前衛演劇が掛かると東京だろうと、京都だろうと出掛けては交流する。
思索の射程が深すぎるのか、卑俗な生き方に染まるのが耐えられなかったのか、昨年春頃から体調を崩し、仕事も、読書も著述も何もかもができなくなっていた。
蒲公英俗物なボクなどは、何とか精神的なバランスを取り、必要に応じては周りに調子を合わせながら破綻に陥ることなく生きてはいる。
しかし昨今の荒んだ社会には、さすがに息苦しくなることもある。
自殺者30,000人を越えるという日本では、友人のように生きることに不器用で純粋な人にとっては破綻せず生きていくことには奇跡に近いものなのかも知れない。
でも今日は話すこともできるほどに回復してきたというので、まばゆいばかりの新緑の中、田舎道に車を走らせてきた。
一時は食事ものどを通らないほどに痩せてしまっていたと言うが、体調も戻り、外見上はそれまで通りの明るい笑顔で迎えてくれた。
どんな言葉を掛ければ良いのか、答えを見出せずに到着してしまったが、その笑顔に安堵とともに、暖かい空気が胸を充填させてくれた。
連れ合いも、夫の介護とともに、身内の病気療養への介護と、2人の病人を抱えさぞや大変だったろうと思うが、いつもの美しい姿で迎えてくれ、話しも弾み、ありがたかった。
女性というものはなんてこんなにも強いのだろう。
彼女無くして、この男の人生は無いのかもしれない。
暗いトンネルを越え、決定的な破綻に陥ることなく現世に戻ってきたということは、まだまだ生きる力が残っているということだろうし、あるいはあらたな自分を見出し、弱さを知るが故の深いひだを刻み、さらに豊かな人生を歩んでくれることを願うばかりだ。
この2人とともに、いつも迎えてくれるのは交流のきっかけになった真樺の大きな食卓テーブル。
20年近くにもなる時間を刻んだメインテーブルだが、破綻もなく磨きが掛かり、古色を帯びつつあり、これも嬉しいことの1つ。
読書も再開しつつあるようだが、少しジャンルを替え、新しい世界にも触れつつあるようだ。それまでの純文学中心のものからサブカルまで含めたジャンルへと。
しばらくは頭と精神のトレーニング期間というわけだ。
帰り際、ある本を見せられた。ボクも信頼を置く著名な中南米文学批評の著述家の新刊。
献本されたようだ。この友人を知る多くの方々が心配りをしてくれている。
3度の食事をきちんと摂り、体調が良ければ畑に出て、酒は慎み、良い睡眠を取ること。
まだ病院通いは続くようだが、じっくりいこう。
人生はまだまだ。

迷いなき 生などはなし わがまなこ 衰うる日の声 凜とせよ

直情の ごとき葱の香 きまじめに 生き来し寒さ 思え静かに

いずれも 馬場あき子

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  • 一週間前の土日、社員旅行がありました。
    協力工事業者の方も参加しての旅行でしたが、ある工事業者の方が
    夜中、旅館の9階の露天風呂から転落して亡くなりました。
    事故とは考えにくく自殺とみられています。まだ小さなお子さんのいる
    37歳の若者でした。
    年間3万人というのは、よく聞く数字ですが一日に80人以上の方が
    自殺で亡くなっていると聞くと、その多さにあらためて驚くとともに
    決して他人事ではないなと感じます。
    ある意味人間としての正常な感覚まで麻痺させてしまわないと
    生きづらい、いやな時代になってしまいました。

  • acanthogobiusさん、身近でそんなことがあったのですか。
    せっかくの楽しい旅行が暗転ですね。
    他人にはその人の決断に至った要因、背景などは必ずしも十分に分かるものでもないでしょうし、ましてやその話を聞くボクには個別の事情にアクセスできるものでもなく、ただただご冥福をお祈りすることぐらいしかできません。
    せめて周りの方々との良い交流、繋がりというものを大切にしつつ、社会的、地域的な安寧を再建するために努力するということでしょうか。
    (めちゃくちゃ一般論でしかないですね )
    精神的、肉体的平衡を維持するためには、やはりメディアを含めた周囲の雑音に踊らされずに自身を見失わない強さが大切なのでしょうね。
    コメントありがとうございました。
    acanthogobiusさんには、仕事と離れたもう1つの人生があるので、心強いはずです。

  • 心暖まるコメントありがとうございます。
    最近、探しても見つからない言葉があります。「繊細」という言葉です。
    日本人の美徳の一つだったような気がするのですが大きな物、強い物が
    もてはやされる時代になってしまいました。
    「周りの方々との良い交流、繋がりというものを大切に」
    多くの人がそう思えるようになってもらいたいと思います。
    お友達の快復を願います。

  • しみじみと読ませてもらいました。
    身につまされます。
    この生きにくい世の中を、よくぞ半世紀以上にわたって、生きてこられたものだと、わたし自身に対して半ばあきれ、半ば安堵しています。
    人の生き死には、ほんとうに紙一重という感じがしています。どんなに強そうにみえる人でも、その胸のなかは嵐が吹き荒れているかもしれないし、どんなに弱そうにみえる人でも、その胸のなかは案外平和で満ち足りているのかもしれない……。
    きのう、庭をながめていて、こういう短歌を詠みました。
      限りある命なれどもやわらかに
        萌えし楢の葉みれば愉(たの)しも
    その「晴耕雨読」さんの快癒を祈ります。
    なお、機会があれば、そこに20年ちかく前に収めたというメインテーブルの写真をアップしてください。
      踏まれても踏まれても菊咲いている
                  吉川英治

  • acanthogobiusさん、
    そうですね「繊細」という考え方、振る舞いというものは日本を特徴付けるものなのかもしれませんね。
    「繊細」とは決して弱いものではなく、本当は強いものなのかも知れません。
    ボクの中でも失われつつあったかも知れません。反省 !

  • 江戸の風に吹かれて さん、
    >どんなに強そうにみえる人でも、その胸のなかは嵐が吹き荒れているかもしれないし、
    >どんなに弱そうにみえる人でも、その胸のなかは案外平和で満ち足りているのかもしれない……。
    強そう、弱そう、という外見上の、あるいはその振る舞いが見せる印象は、その実相とずれていることもあるでしょうね。
    あるいは人というものは決して一面的なものではなく、とても多面的なものかもしれない。
    実は弱いのだけれど、それを押し隠すために強面で振る舞う、ということもあったりするでしょ。
    可能であれば、実はとても強いのだけれど、決して強面ではなく、温厚に見える、というのが望ましいかな。(ボクには無理か〜)
    投句をありがとうございます。
    自身を、楢の新緑に置き換え、振り返る、というように詠めば良いのでしょうか。
    結句の「愉しも」が難しい。できれば馬場あき子ほどの優しさで。
    吉川英治は俳句も詠んだのですね。昔の文人は教養が豊かだからね。
    この句もやはり「繊細」な視点が生きていますね。

  • >自身を、楢の新緑に置き換え、振り返る、というように詠めば良いのでしょうか。
    >結句の「愉しも」が難しい。できれば馬場あき子ほどの優しさで。
    うーむ。異議あり。
    無視しようと思ったけれど、一言。
    限りある命なれどもやわらかに
        萌えし楢の葉みれば愉(たの)しも
    自作自解してみます。「限りある命なれども」は、わたし自身のことです。生きられるとしても、あと高々30年ぐらいのこと。
    そういう後半生を生きる身にあっても、季節はまちがいなく巡ってきて、それまで裸だった庭の楢が、マジックのように芽吹いた。なんという造化の妙か!
    楢は、みずみずしくもやわらかに、黄緑色の長卵形の鋸葉を、日いちにちと広げていく。それをながめていると、わたしのこころは癒され、なにとはなしに愉しくなってくる。
    ――なんの衒いもなく、すなおに詠みました。
    一方、馬場あき子さんの歌は、職業歌人だけあって、きわめて「曲折して」歌っています。
    あたかも、そのまますなおに詠んだのでは、素人っぽくてプロとしての沽券にかかわる、とでもいうように――。
    われわれ市井のアマチュアからみれば、ここまで曲折させなければ、歌えないのかと、疑問に思うこともしばしばです。
    迷いなき 生などはなし わがまなこ 衰うる日の声 凜とせよ
    でも、この歌はいい歌です。とくに、「凛とせよ」が生きている。
    直情の ごとき葱の香 きまじめに 生き来し寒さ 思え静かに
    この歌には、にわかには肯(がえ)んじえない。あまりにも「持ってまわり」すぎている。ぎくしゃくしすぎている。歌は、意味とともに、リズムも大切です。この歌には、詩歌としての滑らかな旋律が欠けている。

  • 江戸の風に吹かれてさん、なるほど良く分かりました。
    もっと素直に詠め、というところですね。
    “やわらかに”が効いていますね。
    馬場あき子を取り上げたとは言っても、詳しく彼女の業績、作風を知っているわけではないのですが、教員生活の中での婦人部活動、あるいは岸上大作との交流、「鬼の研究」「能への造詣」などから、その独自の作風に傑出した現代歌人としての敬意を払っているところですね。
    あざとさ、を指摘されていますが、読み方も様々であって良いのではないかと。
    そこが短歌という日本独自の定型詩としての文芸のおもしろさでもあり、特徴とするところではないですか(この辺りは江戸の風さんのほうが詳しいですね)
    文節に無理やり半角スペースを付けたのが良くなかったのかも知れません。(ボクの責任ですね:失敬)

  • >あざとさ、を指摘されていますが、読み方も様々であって良いのではないかと。
    >そこが短歌という日本独自の定型詩としての文芸のおもしろさでもあり、特徴とするところではないですか
    ――そうです。人は、おのれの生きてきた経歴・器に応じて、それぞれ好きなように作品を鑑賞し、味わえばいいのです。各人が多様に持論を展開してこそ、作品の価値をaufheben できます。
    ただ、くどいようですが、
       直情のごとき葱の香きまじめに
          生き来し寒さ思え静かに
    は、次の二つの点で、わたしは作者の《鬼》
    性を感じてしまう。
    1.「直情のごとき葱の香」という比喩は、おそらく作者がはじめて用いたものだと思うけれど、まだこなれていない。「葱の香」に「直情」を感じるのは、作者の自由だけれど、その感覚を読者に強いることはできない。ここが、比喩表現のむずかしさかなあ。
    2.「きまじめに生き来し寒さ」は、いい表現だと思う。でも、「思え静かに」といわれると、すこし抵抗がある。これは、作者自身に対して呼びかけている、と理解すべきだろう。「思う静かに」では、弱すぎるから。
    ●けさ、京都新聞に永田和宏さんがこういう歌をあげていました。
       死はそこに抗ひがたく立つゆゑに
         一日(ひとひ)一日はいづみ
                  上田三四二
    昭和41年、作者はがんの手術をうけ、「死はそこに抗ひがたく立」っているのを、ひしひしと感じた。そこで、下の句「一日一日はいづみ」が、じつに効いています。
    こういう歌は、単なる技巧を超えています。歌われている内容自体の重みによって――。
    上田さんに合掌。

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