工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

3.11から12年  2本の映画『生きる』『飯舘村 べこやの母ちゃん』

3.11から12年。十二支の干支ではありませんが、小学校に上がった子が、高校を卒業するという年月を重ねてきたのですね。

3.11という震災がもたらした日本の光景、特に福島第一原子力発電所のレベル7(国際原子力事故評価尺度)という最も深刻な大事故を経験させられた日本社会ですが、今、それらの風化は暴力的なまでに進められているようです。

岸田政権は3.11後のこれまでの歴代政権が封印してきた「原発回帰」を選択するという、怖ろしい事態が眼前に展開しているところから、その現状を見据えつつ、2回にわたり、今、問われていることを考えていきたいと思います。

今日はまず、この震災後の長い月日を振り返り、今、あらためてこの震災を問い直す映画が公開されていますので、これらの紹介をさせていただきます。

『生きる』大川小学校 津波裁判を闘った人たち

■ 公式Webサイト https://ikiru-okawafilm.com

全国で上映が始まっているこの映画ですが、3.11、大津波による多数の犠牲者を出した宮城県石巻市の大川小学校を題材に、遺された親たちの10年に及ぶ裁判闘争を中心としたドキュメンタリーです。

当時、メディアでも大きく取り上げられていたところからご存じの方も多いと思いますが、学校の西側を流れる北上川を遡上してきた津波に巻き込まれ、84名の犠牲者を出す大惨事に見舞われています。

「論座」から借用
「論座」から借用

地震発生から津波まで50分の時間的猶予があったのでしたが、学校側はその間、「津波が来る怖れがあります。できるだけ高いところに避難してください」との役場の広報車の呼びかけも無視し、生徒を校庭に座らせていたのです。


ひとりの生徒が1分足らずでのアクセス可能な、津波被害を回避できる裏山への避難を求めたものの、これを聞き入れること無く、最後は逆に少し小高くなった北上川のたもと(三角地帯)に避難させようと生徒らを誘導し、その結果、川を遡上し、押し寄せてきた津波に呑み込まれてしまったのでした。(一部の生徒は制止を振り切り、裏山に駆け上がり助かっています)


その後、遺族らと学校、行政との津波対応を巡る対話、説明会を重ねるも、責任問題においてはその頑なな姿勢は変わること無く、遺族の思い、疑問を解消させるものとはならなかった。
その結果、遺族らは真相解明には司法に訴え出るしか無いと合意し、原告団を組織し、損害賠償を求める民事訴訟が提訴されたのです。

学校が流されてしまった結果、証拠資料の収集もままならない中、遺族らの懸命な働きで我が子を奪うこととなった津波被害は本当に避けられなかいものだったのか、1つ1つ、証拠になる素材を探し出し、収集 編集し、提訴まで持ち込んだようです。

一審の仙台地裁では津波襲来の予見可能性を認め、学校の裏山に避難させなかったのは過失だと結論づけ、23人の遺族へ総額14億2658万円の支払いを石巻市と宮城県に命じる判決を下しています。

画期的だったのは、その後の仙台高裁での審理と判決でした。
これは仙台地裁では認定されなかった学校側の防災体制の不備を厳しく突くものでした。

学校長という立場上、地域住民よりはるかに高いレベルの防災知識を求め、市教委にも高台への避難をあらかじめ設定しておけば、このような悲惨な津波被害は無かったと断じたのです。

この高裁判決の裁判長は、弁護側が津波襲来後の学校側の瑕疵を問うという、やや限定的な弁論方針であったのを大きく超え、震災前の段階での防災体制を厳しく問うという、画期的な判決内容だったのです(裁判長は法律家ですので、「学校保健安全法」に危機管理マニュアルを作る義務を定めているところに照らし学校当局の不作為を問うことになったのです)。

この高裁判決に対し、村井嘉浩 宮城県知事は上告したものの、あえなく棄却され、仙台高裁判決は確定することになります。結果、その賠償総額は遅延侵害金を含め20億円を越えるものになったのです。


映画では、遺族を前にしての石巻市、学校当局の説明会の様子が描かれ、教員らの避難誘導の瑕疵をめぐり、遺族への説得性のある合理的な説明が為されない事への怒り、悲しみ。そしてこれに対し、自己防衛に汲々とする当局者の無様な姿が対照的に描かれています。

災害列島と言われる日本国にあって、毎年繰り返される悲惨な災害。
例え自然の猛威の前に無力な人間存在という本質的な問題があるとは言え、過去の災害から学ぶことで、これらの猛威を回避し、生き存える可能性があるということを、この大川小学校の悲惨な津波被害から学ぶことはできるでしょう。


子の命を預かる学校当局者らは、責任ある立場から言い逃れする前に、予見可能性の知見をもって、避難誘導させる義務があるのです。

犠牲になった子らの親など遺族らは、学校当局、石巻市、宮城県ら行政側の自省的な姿勢での対面は無く、ただただ自己保身と開き直りの繰り返しで、子を奪われた悲しみと怒りを納める場もなく、やむなく提訴へと打って出たのでしたが、地裁、高裁判決により、腹蔵の奥底に沈み込んだ怒りと悲しみは多少は濯ぐこともできたかも知れません。

いま、教訓にすべきは、学校当局として預かった子を安全に守るために為すべき事の重大さを確認するとともに、親ら遺族の困難で厳しい戦いによってはじめて勝ち取れた勝訴であり、「生きる」ためには、それぞれの置かれた立場で、何を為すべきなのかということを教えるものだったのだろうと思います。

【なぜ子どもたちは避難できなかったのか】津波に襲われた大川小学校が“遺したもの”【東日本大震災から12年】

『飯舘村 べこやの母ちゃん ── それぞれの選択』

今月11日に公開される映画です。
前職を振り切ってパレスチナにわたり、その地の女性、子どもらにカメラを向け、代々生き続けてきたパレスチナの土地を暴力的に奪うイスラエルとの無謀とも思える戦いの中の人々の生きる、美しく、尊い姿をフィルムに焼き付け、数々の授賞に輝く貴重なドキュメンタリー作品を世に問うてきたジャーナリスト、映画監督の古居みずえさんによるもの。

過日、ラジオに彼女が出演し、この作品を知ったばかりです。
残念ながら当地での上映は未定ですが、ぜひ観たいものです。
過去2本ほど、上京の折、彼女のパレスチナを舞台にしたドキュメンタリーを観ていましたしね。

パレスチナに足を運んでいた古居さんがなぜ福島の飯舘村なのか、一見、この2つの関係に戸惑うところですが、彼女に言わせれば「人々が忘れさられつつあるとことにカメラを向けるという意味では大きな違いは無い」と話すのです。

確かに、3.11福島第一原子力発電所の事故から12年を迎え、今やこの事故で、住む場所、生業の拠点、人生の全て、と様々に語られる地域、福島のその後は人の口の端に上ることも少なくなり、メディアも周年記念であったり、2021年の五輪聖火リレーなどで瞬間的にスポットライトを浴びせるだけで、普段は忘れ去られてしまっているというのが偽らざる昨今であるのかもしれません。

国土の一部を放射線で汚染され、10年経過してもそこには戻れぬこの重い事実。
この実態にいてもたってもいられない思いで、10年以上にわたりカメラを担ぎ日参した古居さん。
女性ならではの柔らかな視線と、パレスチナで鍛えたフットワーク、カメラワークを駆使し、飯舘村の母ちゃんたちの心の叫びをフィルムに焼き付けてきたようです。


私は2011年、3.11直後は他の2名とともに津波の被災地・石巻に緊急ボランティアとして入ったのでしたが、その後、少しインターバルをおき、その年の秋口から福島市に渡り、京都精華大学、福島大学の有志の先生方とともに、除染プログラムの実証実験に携わりました。

その現場の1つがここ飯舘村だったこともあり、この映画にはその頃の熱い思いを蘇らせる何かがあるはず、という思いからも、なんとしても観ておきたいものです。

今もまぶたに鮮明に蘇りますが、連なる山のふもとでは無農薬栽培に人生を賭けてきた篤農家の人々が耕してきた緑豊かな田が拡がり、山里の家の軒先には真っ赤な柿が鈴なりで、しかし無念なことにこれらは口にすることのできない代物と化している無惨な光景。
ポケットから線量計を出せば、とても長時間は居続けることの難しいほどの線量。

中通り、福島の街中の小学校の通学でさえ、公園の隅の落ち葉が堆積したところなどには、強いホットスポットがあちこちに視られ、そこを友達と楽しげに歩む子ら・・・

飯舘村は3.11福島第一原子力発電所のプラント爆発による放射線ブルームが覆い被さった地域で、原発事故直後から「全村避難」に指定され、その後、2017年3月に避難指示が解除されています(未だに線量の高い南部の一部を除き)。

放射線の中でも、人体に長期的影響を及ぼすとされる〈Cs137〉セシウム137 は半減期が30年。
したがって12年経過したと言えども、その線量の低減はほんのわずかなものでしか無く、未だに大変猛毒で危険な放射線が至るところに残留しているのです。(Cs134は半減期2年とされ、12年経過しているので、この影響は少なくなっている)。

莫大な国費(3兆円とも言われている)を投入し、局所単位で除染事業を行っては来たものの、居住地域全般を除染することは叶うわけもなく、住居敷地内、道路周囲のみといった限定的な除染でしか無いのですが、これは重機と人海戦術での手法を基本とするところから、致し方無いものと言わざるを得ないのでしょう。


さて問題は、この除染事業で排出された膨大な汚染土。福島県下からは東京ドーム11個分という堆積になるとのことで、当初、政府はこれを県外で最終処分すると法律で約束したものの、これにはまったく未だにメドが無く、放置されたままです。

これを「除染土の再利用」ということで新たな農作の土壌として使おうという話しもあるようですが、Cs137 に汚染された土壌で作付けする農家の苦渋を考え、またこれが市場に並んだ場合の消費者の忌避感を想えば、12年という時間軸の経過に関わらず、いや、逆に12年という短くは無い月日の経過は、長期に渡る避難、農業従事者の激減と高齢化、さらには農業経営共同体の崩壊等々、問題山積であることにあらためて気付かされるのです。

そんな中にあっても、飯舘村の母ちゃんたちは放射線に汚染された牧草地の草には手を付けられず、ミルクを出荷することも叶わず、しかし、ベコとともに、悲しみと怒りを腹奥底に収め、誇りとする酪農に従事し、明るくたくましく生を営むのです。

公式webサイト:https://iitate-bekoya.com

《関連すると思われる記事》

                   
    

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.